生涯教育と人間形成 6/24 講義ノート2

7)性器期と「忠義(忠誠)」:リビドーの昇華、全面展開

 性器期:生殖能力の獲得。
  子供から、子供を産めるようになる。

 実践的に、男女平等で、相互性の観点で言えば、男はファルスを挿入し、精液を発射する、注入する:捧げる、贈る/女は内部に注入される:受容し、我がものに獲得する。その相互性においてエクスタシーへ。
 ただ欲望の充足では、発達せず、荒廃する。
 「愛飢男(アイウエオ)」(池上遼一の劇画)・・後述


 青年期の徳=活力の「忠誠」から、「愛」、「ケア」という発達。

 フィロス(情愛、愛好、愛国など)、エロス(性愛)、アガペー(神の愛)
 パスカル、愛(amour)の空しさ(『パンセ』断章一六二)、身体から無限の距離がある精神から無限に無限の距離がある慈愛(charite)(断章七九三)。
 日本語では同じ「愛」でも意味が異なる。

エリクソンが、青年期に「忠誠」を、そして「愛」を若い成人期に位置づけたのは、一心に一途で強烈な他者愛の傾向、偏向があるから。
 それは、これまでの親による一方的な愛の受容(受動的な愛)から、親からの自立とともに、能動的な愛を実践できるようになったから。しかし、愛されること(受動的愛)と愛すること(能動的愛)、自己愛と他者愛のバランスを取ることに未熟で、受動的愛から、能動的愛に一挙に転回してしまう。
 それはまた、愛の溢れる親から自立するためのエネルギーのためでもある。親子の情愛が深ければ深いだけ、それを離れて、新たな相手と愛を育むためには、それができるだけの心的エネルギーが必要。それがまた、自立のためのエネルギーになる。
 全身全霊を込めた賭のような性格がある。

 フロイトは「性理論三篇」の第三章「思春期の改造」において、「性衝動は今や生殖機能に奉仕するようになる。性衝動は今や利他的(altruistisch―引用者)になる」* 。

 ただし、まだ初歩的、或いは未熟な「利他的」な段階で、謂わばとても利己的な「利他的」衝動。
・・ストーカーなど。
 「脱中心化」が課題


デートDV
自己チュウ、安易な性的関係、しっかりと相手を見極めてから・・・ではない。
性への衝動も、暴力への衝動も抑えられず、自制心が未熟

自我も未熟で、被害を受けても抵抗せず、逃れられず、病的で不幸な関係を続ける・・・

山口のり子『愛する、愛される:デートDVをなくす・若者のためのレッスン7』梨の木舎、二〇〇四年
日本DV防止・情報センター『デートDVってなに?:理解・支援・解決のために』解放出版社、二〇〇七年



7-1)遊びの発達としての性愛をめぐるクライシス

 厳粛で真摯な研究として

 性愛は秘めやかなことで、それがロマンでもある。

グレーゾーンの機能、役割

formal non-formal in-formal outlaw
outsider

 親や教師では扱えないようなことを、若者集団で学ぶ。大人の社会のクリティカルなことについて、仲がいいから、危ないことはさせない。危ないからやめろと止める。
 旧来の若者組、、、現在の、、、「サークル」、ネット空間の繋がりか??

謂わゆる大人の遊びの快楽、享楽を知り、かつ溺れない(依存、退行、倒錯に陥らない)
「水清ければ魚すまず」(前出)と言われる現実はあるが、安易に容認すべきでなく、その過剰には注意を払わねばならない。

形成と教育(宮原誠一)の連関


同性愛と異性愛の複合(コンプレクス)
同性愛/“反異性愛”との関連

女とは合わない、イヤだが、お前は別だ。
男は嫌いだけれど、あなたは好き。


8)否定的アイデンティティ

 学童期の「劣等感」が「積極性」へと弁証法的に発達せず、自己否定、自己嫌悪、自己卑下という方向で「成長」し、それに即してアイデンティティが形成される。
 失敗に負けて「自分はダメだ」と自認してしまう。
 さらに、それが追従に結びつき・・・
 奴隷根性、自己卑下、「奴才」

自己否定、自分を無価値で無意味と見なす。差別、抑圧の文化、慣習、教育の所産。

エリクソンも指摘する黒人女性の白人を美しいと見る美意識、差別、偏見

フランツ・ファノン「黒人は白人になりたいと望む。白人は人間としての条件を実現することに熱中する。この二重のナルシシズムから出てくるさまざまな傾向と、それが指し示している動機とを明らかにすべく努めよう」*
ファノン「黒人としての自己同一性(identite noire)の意味を必死に発見しようとしているニグロの絶望的な努力」、「白人の文明、ヨーロッパの文化は、黒人に、実存の屈折を押しつけたのだ」、「黒人の魂と呼ばれるものが、しばしば、白人の作り物にすぎない」*


9)アイデンティティとタナトス

エミール・デュルケムの自殺論(1897年公刊)。「社会学的研究」であり、「アノミー(無規制混沌状況)」を鍵概念にして心理社会的な病理も取りあげている。
 cf:社会分業論、道徳教育論

Le suicide : etude de sociologie(1930年刊、PUF版、p.444、宮島喬訳『世界の名著47 デュルケム ジンメル』中央公論社、1968年、p.372)。「昔に比べて自殺がふえたのは、今日人々が生活を維持するうえにいっそう辛い努力をしいられているからでもなければ、人々の正当な欲求が以前ほど満たされなくなっているからでもない。それはむしろ、人々が、正当な欲求がどこでとどまらなければならないかを知らないからであり、みずからの努力に方向を見いだすことができないからである。」
 世紀末のヨーロッパ、パリの状況を踏まえて読むべき。
Christian Baudelot et Roger Establet
Durkheim et le suicide, Presses universitaires de France, 1984

Marx on suicide
ed. by Eric A. Plaut and Kevin Anderson(with introductions), translated by Eric A. Plaut, Gabrielle Edgcomb, and Kevin Anderson
Northwestern University Press, 1999.
マルクスの「疎外」、「自己疎外」の概念から


9-1)アイデンティティと戦争
 『アイデンティティと戦争』
 来年度の授業「平和のための教育」で



10)アイデンティティと社会、時代、歴史(通時と共時)

 自律・自立、家庭の外に出ることの存在論
 内と外の弁証法

「ヨハネ福音書」一四章一一節「わたし(地上で受肉されたキリスト)が父(天上の主なる神)の内におり、父がわたしの内におられる」

ゲオルグ・ヘーゲル「自己意識に対しては別の自己意識が在る。つまり自己意識は自分の外に出てきているのである」*

ハイデガー「世界―内―存在(Das In-der-welt-sein)」の「内」と「外」・・空間的概念
 無限で外はないから、

バートランド・ラッセルはウィトゲンシュタインの「解説」で「われわれの視野は外部をもちえず、まさにそれゆえに、われわれにとっては限界をもちません」* ・・無限に外が続くから、外はない。

 光の速度は、どのように観測しても同じ。
 メビウスの帯、クラインの壺のように、進んでいると元に戻る。

 内包と外延という概念規定に関しても、弁証法的に考えるべき。

*ただし、ハイデガーの概念は、弁証法的な発展ではない。発展を拒否する宿命論、ニヒリズム、シニシズムがある。


 ハイデガー「現存在」・・時空間的概念
 現在とは、今、ここに生きる人間にとって現在であり、また、その現在において人間は生きている=存在する。
 ここという現実に存在する人間は過去から未来の時間(歴史)の「内」にあり、また、その歴史(時間)を認識し、新たな歴史(未来)を創造することで「外」にある。

 居場所とマイペース

実存=出で来たる
 実存主義=existentialism
  existence=存在、実存
  exit  =出口
  存在することは、出て行くこと、出て来てあること。

 cf:
 パスカルの「船出」:『パンセ』断章二三三、『アイデンティティと時代』では冒頭。

三木清
 「人間が世界のうちに在るのは他の自然物が自然のうちに在るが如くではない。人間は謂はば単純に世界のうちに在るのではなく、却って出て来て在るのである。ラテン語のexistit(現実に存在する)は語源的には『出て来てしまった』ということを意味するが、人間の現実存在には元来かかるところがある。人生は旅であるという誰もが抱く感情は、我々がこの世界のうちに在るのは出て来て在るのであるという意識を現している。人間は自然の一物でありながらその中にあって自己を異郷人として感ずる。ひとはこれを世界に於ける人間存在の無宿性と称し得るであろう。」
『哲学的人間学』より。引用は『三木清全集』第一八巻、二七二頁。

内向きか、外向きか。生きる姿勢、態度、志向性(フッサール)。
 内向きでも、内向だけでなく、内省や内発もある。
 外向きでも、外向や外交だけでなく、外心や排外もある。

 子を家から追いたてる「やらふ」意味の「児やらひ」
大藤ゆき『児やらひ』三国書房、1944年、柳田国男の序があり、そこには家から戦争に駆りたてるという時代状況が認められるが、それに注意しつつ、「やらふ」の意味を認識すべきである。

月性(幕末の尊皇攘夷派で、浄土真宗本願寺派の僧、月照とは別人)
 「男児立志出郷関/学若無成不復還/埋骨何期墳墓地/人間到処有青山(男児志を立てて郷関を出ず/学若(もし)成る無くんば復(また)還らず/骨を埋る何ぞ期せん墳墓の地/人間(じんかん)到る処青山有り)」

ウィリアム・スミス・クラーク「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」
 教養教育ハンドブック、新渡戸稲造が札幌農学校に入学した時、既にクラークは帰国していたが、影響を受けた。


ツール・ド・フランスなどの青年の巡歴修業

学問と旅行


11)言語(特に母語、生成語)とアイデンティティ

ウィリアム・シェイクスピアが、終身追放刑を宣告されたノーフォーク公モーブレーに「イギリスの国語を、いま私は捨てねばなりません。/私の舌はもはや無用の長物となりはてました。(中略)陛下は無言の死を宣告されたのです。私の舌から/使い覚えた母国語を吐く息を奪われたのですから」と訴えさせたことには、根源的な意味がある* 。
チョムスキーの生成文法
フレイレの識字教育、解放の教育学

アニミズム的な言霊信仰的な言葉への拘り(言葉への服従)から、論理的な言語の活用、統御

 グローバリゼーションにおいて
母語、生成語(家庭内の言葉)、地域語(方言)、共通語(仕事や交際の言葉)、外国語
最もリラックスできる母語と学習や労働に必要な外国語は
「よく遊び、よく学べ」に通じる。


 小学校での英語教育と国語教育
 グローバリゼーションで必要だが、早期教育の弊害も認識(先述)

参考:フレイレの識字と解放の教育学(ゼミなどで)


 文明史を通して生成した民族の言語を、生まれ育つ過程で生成的に習得した母語、生成語
 外国人は、それを圧縮した要点をシステム的に習得。
 系統発生と個体発生の相関性の言語的な現象


12)文明、文化、イデオロギー、差別、偏見の問題

文化(culture)、文明(civilization)とイデオロギー
文化と文明には共通性があるが、「日本文化」という表現はある一方、「日本文明」はないなど、文化には国(生国から国家まで)や民族に関わるより多い。
 文明は「文明病」の造語のように、科学や技術の発展に関わる部分がより多い

明治期には、「文明開化」が使われ、その中の「開化」が「文化」と同義で使われる用例があることから、「文明」から「文化」が派生したと言うことができる。
これは科学技術の普遍性と国や民族の固有性に相関している。

これは、どちらがいいということではなく、個と多、「一即多、多即一」の弁証法の観点で考えるべきである。



呼称と主体
本名、愛称、ニックネーム等々(生涯教育原論など)
自分が表明し/人が呼びかける
アイデンティティ/ミューチュアリティ


それに関わる問題
レッテル貼り、ラベリング、スティグマ(烙印)*
 イメージ、シンボル、象徴との差異と境界、識別・・

 否定的アイデンティティへ(青年期)


*民族的イデオロギー
 大阪の在日コリアン(韓国籍、男性)、09年5月7日に大阪で聞き取り。
 1970年代に小学生時代、自分に名前が二つあったり、家族、特に在日一世の祖父母が、周囲の日本人と違うことに「喜ばしくない」と感じた。・・親などの大人の実感から・・・
 小学校高学年の時に、民族問題に熱心な教師が職員室に呼びだし、「何故歴史を勉強する時に下を向いているんだ」などとお説教した。先生は私を同級生と同じに見ていなかったのだとショックを受けた。その時の職員室や帰り道の情景が今でも思い出せて、記憶に刻まれている。傷つけようとしたのではないことは分かっていたが、歴史や社会を見せつけられてショックだった。

 家族の範囲から国家や民族の範囲への、発達的な跳躍、脱皮・・そのクライシス
 能力の量的な発達が、跳躍、脱皮=質的な発達に転化し、そこからまた量的な発達・・・
 量的変化と質的変化の弁証法
 そのクライシスに、仮に「いじめ」で民族差別を受けるとトラウマになる可能性が高まる。


13)歴史とアイデンティティ(復習と発展)
 青年から成人へ―近代市民社会への歴史的発展と個人の自立への発達―

 かつて、公家や武家では男子は元服、初冠、女子は初経祝い、裳着(およそ12-16歳)
農民では若者組や娘組に加入
文化が民衆に普及し、干支を知るようになると、誕生から干支が一巡した十三歳を「十三祝い」とした。
これらを通して「しつけとれる」年になったとして、躾=教育は終えて、一人前に自分だけで働くことを求められるようになった。

文明開化、若者組から青年団へ
「明治国家は若者組や娘宿を淫らな風俗をすすめるものとしてつぶしてしまった」(芳賀登『成人式と通過儀礼―その民俗と歴史―』雄山閣、一九九一年、二二四頁)・・
 また芳賀は若者組は「自主的自治組織」であり、また「村請公役の下うけ団体」の「二面性」を持っていた。二三五頁。

 近代以前は「通過儀礼(rites de passage)* 」により、子供と成人が区別されていただけで、青年期はなかった。
 「通過儀礼」には、子供が成人になるための課題があると同時に、子供が成人になるのを回避、逃避するのを防ぐ役割もあった。近代化により通過儀礼が廃れ、近代化に欧米化(特にアメリカナイゼーション)が重なった日本で「引きこもり」が増加したのは、この成人の回避、逃避の機能が衰えたためと言える。

 フィリップ・アリエスは『《子ども》の誕生』(1960年)で、家族が近代化する中で「子供」の観念が生成したことを示した。
 近代化の過程で、生産力が発展し、それに相関して成人になるために能力も高まり、子供から成人になるためのモラトリアム(猶予期間)ができ、それが青年期になった。

 ・・徒弟見習いの巡歴修業(先述)、

 ケニストンは「二十世紀以前には、青年期(ユース)がライフ・サイクルの一段階として認められることはほとんどなかった。人生は幼児期(インファンシィ)と共に始まり、その後、幼年期(チャイルドフッド)が続き、それが思春期(ピュバティ)まで続く。ただし、当時の思春期は現在よりも数年遅く起こり、思春期を終えると、大部分の若い男女はすぐに成人の世界に備えて何らかの徒弟期間(アプレンティスシップ)に入っていった。」*
さらに彼は「青年期後期の若い大人たち(ヤング・アダルト)」について「腰を落ち着けようとしない二十四歳の青年」などと表現し* 、一九七〇年代の青年期の年齢期間を示している。
 参考:宮原誠一「年長青年」・・「反乱」から、社会を構成する成人となる段階の青年への着目。


啓蒙思想、近代市民社会、
自立への決断、その「勇気」

「啓蒙」、Aufklärung、Enlightenment
カントはホラティウスを引いて「敢えて賢かれ(Sapere aude)/自分自身の悟性を用いる勇気を持て!」(『啓蒙とは何か』冒頭)
カントは「啓蒙とは、人間が自己の未成年状態を脱却することである」と定義する。しかし、「未成年でいるのはとても気楽」なので、そこから脱却しようとしない。それ故「敢えて賢かれ」と提起する。
なお、カントは啓蒙専制君主フリードリッヒ大王の「いくらでも、何事についても、意のままに議論せよ。そして服従せよ」に対して、「理性を公的に使用することは、いかなる時でも自由でなければならない」と提起する。

ここにはアイデンティティと歴史、時代の交錯、個体発生と系統発生の相関性が集約されている。

→ヘーゲル=三木の「真理の勇気」へ

近代市民の個人、独立自尊。


14)総括的に、
出産「生理的早産」(ポルトマン)
少年期「ホモ・ディスケンス(学ぶ人)」(神谷)
・・学び続けるのが人間の存在的特質・・それ故、教育により自立は、この存在に適合。


民主的社会で、民主的な家庭で、民主的な教育での自立

「慈父」で、「優しい」教師の、本質が問われる。
人間(親も子も)は有限な存在だから、無限、ないしは無限に近い愛に努力するのは、却って問題となる。過保護/過干渉。

親は子供だけを「愛」するのではなく、自己愛も適度に持ち、自分の欲求と子供の欲求のバランスをとる。

民主主義は、人権を自覚し、自立した、自由な市民、独立自尊の精神を有する個人によって実現される。
自分の権利や自由だけでなく、他者の権利や自由も認める。

「私はあなたが何を言っても賛成しないが、私はあなたがそれを言う権利を断固として護るだろう」(ヴォルテール/タレンタイア)
「自由とは、常に、思想を異にする者のための自由である」(ローザ・ルクセンブルク)

 そのような市民は、そのような市民を育てる。
家父長制の抑圧や強制ではなく、民主主義の困難、自由の責任、自立の厳しさを教えるべき。

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