生涯教育と人間形成 7/17 第12回 講義ノート

7/17 第12回

前回の共同学習

エリッヒ・フロムの「愛することで満足するのが完成形」
A:「愛」の概念が、アガペーやチャリティなどを踏まえて。

「信頼」と「愛」
A:エリクソンでは乳児期~成人期を見渡して。

未婚の増加、男性の「草食系」も
A:その通り。男女のミューチュアリティ

美輪明宏の「腹六分」は、よく分かる~冷たすぎる。
A:ゼミなどで議論のテーマ。

「そばでは客観的、遠くではむしろ主観的」
A:「内」と「外」の弁証法か? ゼミなどで議論したいテーマ。

「二人の孤独」の解決は?
A:親密性vs.孤独vs.の弁証法
 対話で愛を発達させる。

孤独と「マザー・コンプレクス」
A:自立の問題。

「彼女がいたことがない」、「忠義」という感覚にはならない、何が原因か?
A:出会いがある。『アイデンティティと時代』で述べたが、何度も夜中に後輩の女学生のアパートに行き、ずっとおしゃべりしても、手さえ触れなかった。最後は「出ていって」と言われた。彼女には悪かったが、そこまで踏み出す気持ちにはならなかった。なお、彼女は、私が知らないうちに『アイデンティティと時代』を読み、メールを送ってきた。
 いずれにせよ、出会いがある。

ジェンダー・フリーとは
A:固定観念に捕らわれず、自由(フリー)に、だが、自由、人権の理解が基本。

米国発!Breaking News】He、Sheをやめ“Xeを使用”とカナダの教育委員会。ジェンダーフリー発想もPTA大混乱。
 2014年06月25日 (TechinsightJapan編集部 Joy横手)
カナダ・バンクーバーの教育現場、新語“Xe”で大揺れ
男女平等、個性尊重、そして性同一性障害への理解が進み、児童・生徒を男子/女子に分けることを善しとしなくなってきた学校教育の現場。カナダで進むジェンダーフリーの精神にもとづき、バンクーバー市では“Xe”なる新しい言葉が誕生した。しかしその支持率はかなり低め。どの学校でもPTAは喧々囂々となっているもようだ。
カナダ・ブリティッシュコロンビア州バンクーバー市の教育現場では今後、これまで聞いたことのない「Xe(ゼ)」なる新しい単語が多用される可能性が出てきた。たとえば「ジョンはボブからリンゴを3つもらいました。ケイトからも4つもらいました。“He(ジョン)”は今、いくつのリンゴを持っているでしょうか」といった文章問題において、男女で異なる“He”や“She”といった代名詞を用いず、これからはどちらにも“Xe”を使おうという動きだ。
ジェンダーフリーの精神を具体化しようと、通達で各学校にそのような呼びかけを行ったバンクーバー市教育委員会。his/her(s)に代わって“xyr”、him/herに代わって“Xem”という新語も考案されたようだ。委員のひとりであるマイク・ロンバルディ氏は、地元メディア『Vancouver Sun』紙に「性別を超えたトイレの使用も取り入れていく方針です。我々はどの児童・生徒にとっても居心地のよい環境づくりをするよう努力していきます」と話している。
ただしこの新しい試みに対し、PTAの評価は芳しくない。「意味をなさない単語が混じると子供たちは困惑する」、「訳をよく分かっていない6歳児にどう説明するのか」、「違和感がある」といった反対意見が続出している。中には、「そのようなことを決める際に、児童・生徒の心理学や医療に携わっている専門家の意見は投影されたのか」と教育委員会の暴走を指摘する親も。またトイレについても、「当人にとってはデリケートな問題で、男女兼用を許可すれば済むという話ではない」と慎重論が多いもようだ。ちなみに、化学の元素記号でXeとは希ガス“キセノン”のこと。またギリシャ語でXeは“風変わりな”という意味だそうだ。


小レポート
課題:青年、成人、老人の「人間的強さ」の発達について、講義を踏まえて論じる。
 青年期の忠義、若い成人期の愛、成人期のケア、老年期の叡智という発達のダイナミズムに即して、「世代のサイクル」に関連させて論じる

字数:
 2000字前後
 学籍番号、氏名があれば、表紙は不要。

締め切り:
 7月31日

提出先:
 yama@cc.osaka-kyoiku.ac.jp

付記:
 自分の書いたレポートは自己表現であるから、十分に大切にする。
 今回と次のレポートと合わせて、生涯について書くことを念頭にする。
 内容が有意義であると評価したレポートは、後輩の指導のために使われることを前提に提出。その際、執筆者を任意のアルファベットや数字の組み合わせにするなど、執筆者が特定できないようにする。

小テスト
 7月31日、持ち込み可


前回の続き
4)倒錯、退行、葛藤、逃避

パラフィリア (性的倒錯、性嗜好障害)
 自立し、自由になると、それまで抑えられていた倒錯的な特性・個性が発現する。
 それ故、精神的な訓練(心の修行)により人間的強さを発達させねばならない。

 高度情報社会において、購買意欲を掻き立て、行動を方向づける等々、無数の刺激が氾濫し(メディア・リテラシーの課題)、欲望が膨張し、他方、幼稚化で自立できない者が「臆病な自尊心」(中島敦)で、自立した他者ではない対象を求める。
 性の商品化、性的搾取と裏腹で、性に関する情報の安易な伝播や扱い方も問題である。
 S、M、ロリ、フェチ等々。

 自由と快楽(フリーセックス)、自立などの詭弁で、本人に不利益になるのに、騙して性を「搾取」し、使い捨てる。
 「不倫」や「援助交際」を囃し立て、助長する。
  参考:前掲『トランスジェンダーとして生きる』など。


4-1)ピュグマリオニズム 、ピュグマリオンコンプレックス、人形偏愛症
 ピュグマリオン(Pygmalion)は、ギリシア神話に登場するキプロス島の王で、現実の女性に失望していた彼は、あるとき自ら理想の女性としてガラテアの像を彫刻した。その像を見ているうちに、彼はガラテアが服を着ていないことを恥ずかしいと思い始め、服を彫り入れ、さらには彼は自らの彫刻に恋をするようになる。さらに彼は食事を用意したり話しかけたりするようになり、それが人間になることを願った。その彫像から離れないようになり次第に衰弱していく姿を見かねたアプロディテがその願いを容れて彫像に生命を与え、ピュグマリオンはそれを妻に迎えた。また、ゼウスがその女を望んで、ピュグマリオンから奪ったという説話もある。

 アニメやコンピュータ・ゲームのキャラクターを愛好し、生きた人間との恋愛ができない者が、アニメやコンピュータ・ゲームの広がりとともに現れた。


 社会心理学などでは、期待することによって、相手もその期待にこたえるようになるという過程や結果を「ピュグマリオン効果」と呼ぶ。


4-2)ペドフィリア(paedophilia、幼児・小児への倒錯的な性愛)・・後述
 所謂ロリータ・コンプレクス(ロリコン)


 紫式部『源氏物語』における光源氏と紫の上(若紫、紫の君)
 前者は後者を理想の女性として育て、その後、事実上の正妻とする。
 『源氏物語』が古典として読み継がれてきたのは、宮中の恋愛物語だけでなく、内奥の倒錯に触れるような要素があったことも文学的に表現・昇華し得たからと言える。

次の発達段階での生成力か、それとも子供への性的虐待かのクライシス


4-3)フェティシズム(fetishism)
 生命のない対象物に対する強烈な性衝動、妄想、行動が長期的に持続・反復する。


 これは他分野でも援用され、人類学や宗教学では呪物崇拝、経済学では物神崇拝などと訳されている。


5)労働―遊びからの発達として

 快楽原則から現実原則へ

 快楽原則が発達し、成熟し、洗練され「大人の楽しみ方」に習熟する。
 欲望の充足、欲求の達成より高次の崇高な充実感を楽しむ。

 そして、成人期の「ケア」(他者を助けることで得られる充実感)。

 「自己実現」は、「実現」する「自己」が鍵であり、その水準が問われる。

バーンアウト、過労死
 社会心理学、行動学、経営管理論の発達により労務管理の巧妙な飴と鞭の動機づけがなされ、それによるバーンアウトや過労死が問題となっている。
 前者の飴は快楽原則の応用=悪用


5-1)遊びの本質論

フリードリッヒ・シラー:カント哲学の美学的詩学的展開
フリードリヒ・フォン・シラー/小栗孝則訳『人間の美的教育について』法政大学出版局、一九七二年、
シラー第八信。六〇頁「敢えて賢かれ(Sapere aude)」・・ホラティウス=カント
シラー第十四信。九二頁「遊戯衝動は、時間を時間の中で廃棄すること、生成を絶対的な存在と協定させ、変化を同一性と協定させることに向けられている」
第十五信。九五頁「現実性と形式との一致、偶然性と必然性との一致、忍従と自由との一致だけが人間性の概念を完成する」
九八頁「人間のあらゆる状態の中で、まさに遊戯こそは、ただ遊戯だけが人間を完全なものに」する。
九九頁「人間は遊んでいるところでだけ真の人間である」(訳は変えてある)。

ヨハン・ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』で、子供の遊びだけでなく、企業、議論から戦争まで、人間の活動全般に遊びのような特性が見られると論じた。それを踏み越えたのがナチズム、ファシズム、
それは、キリスト教的な禁欲、敬虔、節度、勤勉等を志向した人間観に対して、遊びの意義を示した。
エロスとタナトスを考えるときに、彼が『ホモ・ルーデンス』で遊びの観点から戦争を捉えたことの重大性を思わされる。
ホイジンガ『中世の秋』のⅦ「戦争と政治における騎士道理想の意義」において「この理想は、生活を美しく、おおげさに飾る。そのおおげさな誇張のうちにこそ、かしかに、かつてはこの理想の力が存していたのである。/中世のはげしい精神は、理想をいや高きにかかげることによってのみ、ようやくその血みどろの激情を制御しえたかにみえる」と述べている。堀米庸三責任編集『ホイジンガ』世界の名著第五五巻、中央公論社、一九六七年、二二四頁。・・美化や誇張(これは遊戯に通じる)があるが、そこに抑止効果があったと彼は考える。

学習は、外在的に課せられた学習や労働の中に遊戯性を見出し、そこで快楽を得ることを可能にする。これを人間論や文化論として論じたのがヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」である* 。ただし、これは積極的な捉え方であり、消極面も認識しておく必要がある。バーンアウト・シンドローム(燃え尽き症候群)には、仕事に喜びを感じるあまり没入し過ぎて破綻するという症例もある。ここでも過剰に注意して緊張と緩和のバランス、現実原則と快楽原則の弁証法が求められる。


ロジェ・カイヨワ/多田道太郎、塚崎幹夫訳『遊びと人間』講談社文庫、一九七三年。
四分類「競争(アゴン)」「偶然(アレア)」「模擬(ミミクリ)」「眩暈(イリンクス)」
競争:アゴン:運動競技、格闘技、チェス
偶然:アレア:じゃんけん、くじ
模擬:ミミクリ:子供の物真似、人形、仮面、演劇
眩暈:イリンクス:メリーゴーランド、ブランコ、スキー、登山
イリンクスとミミクリとの組み合わせからアゴンとアレアへの発展・発達

競争と勝敗の関連性を弱め、意外性を増す。観念の操作。
「日本語版での序文」で「シラーの予言者的直感とJ.ホイジンガのみごとな分析」を継承すると述べている。カイヨワ三頁。
また華道、茶道、和歌・俳句、凧揚げ、贈り物の交換(中元や歳暮など)、能や歌舞伎、武士道、弓道、禅問答に「遊戯精神との明白な血縁関係」を見出している。カイヨワ四~五頁。

内藤莞爾訳『聖なるものの社会学』弘文堂、一九七一年、一五八頁。「戦争は、もう戦争以外のなにものでもない。(中略)戦争は、美学的・倫理的な残滓を払拭して、なんの懸念もなく、その成功だけに専念する。要するに敵の全滅だけをこころがけることができるようになった。そしてあらゆるものを利用し、また全力をこの利用に注がなくてはならない。そこではすべてが効用によって正当化される。」
 ナチズム、ファシズム、・・アウシュヴィッツの“合理性”・・ホイジンガの遊びとしての戦争の到達点として

桑原武夫、塚崎幹夫訳『文学の思い上がり―その社会的責任―』中央公論社、一九五九年。原著は「BABEL」バベルの塔

飯沢「検閲文化」に対する「武器としての笑い」飯沢匡『武器としての笑い』岩波新書、一九七七年、二一頁、二〇七頁等。
「奴隷の言葉」ではない「笑い」の有する「下克上の本質」二一頁。

 これは、権力支配、統制管理、抑圧に対する風刺、パロディ、ブラック・ユーモア等々。


6)親密性の拡大
 家族のみならず、職場、地域(共同体、アソシエーション)へ
 チームワーク、近所づきあい

 親密な関係が拡大する中でアイデンティティを保持する。
 その場その場で“KY”を感知し、対処し、抑え込まれないための人間的強さ、また「実践感覚」(先述)。

 それが自由と規律を統合した民主主義社会、アソシエーションを実現し、支えることにも成る。
 「一人はみんなのために、みんなは一人のために」
 「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となる一つの協同社会(アソシエーション)」『共産党宣言』


6-1)親密性が堕落した馴れ合い、温情主義
 インパール作戦に関わる牟田口と河辺の間の「個人的な心情」、「親しい間柄」、「私情」
 公私混同というには、余りにも甚大な犠牲!!!

 ……英霊を貶めるなという意見がある。しかし、ノモンハン、ガダルカナル、インパールなどの作戦を概観しただけでも、そもそも「英霊」となった人命を軽視して次々に兵力を消耗した責任が問われる。そして、その究極が神風特攻隊であり、人間魚雷回天である。これは、尊い生命を失った兵士一人ひとりを問題としているのではない。このような作戦を立案し、しかも、戦後生き続けた責任者を問題としているのである。この点で、次の牟田口中将のエピソードを取り上げる。
 インパール作戦に従軍した黒岩正幸は「司令官・牟田口中将は、作戦の末期に、『敗戦の責任をとって自決しようと思うが・・・』と、幕僚に話しかけたが、本気なら不言実行するはずだと思った幕僚が、『どうぞご随意に』とつっぱねると、『ウハハ』と照れたように笑い、結局、自決は実行しなかったという。」と述べている(6)。
 これは一兵卒の著者自身が見聞きしたエピソードではなく、伝聞によるものである。それ故、確かに、このエピソードが事実か否かについて考えることも重要であるが、しかし、それに視点を固定させてしまい、生還した兵士たちの間で、このようなエピソードが交わされていた心理社会的状況について看過することには注意を払う必要がある。戦争責任問題として顕在化しないまでも、このような集合意識が潜在していたことは重要である。
 これに関して、牟田口をめぐる旧日本軍上層部では「人間関係と組織内の融和を重んじる態度」や「私情」や「人情論」があったという指摘は重要である(7)。「ウハハ」と笑ってごまかすことなら、平穏な日常の生活世界ならしばしば見られる。笑って許してという態度は、歌謡曲の歌詞やマンガの場面では取り上げられることもある。しかし、無謀な作戦の責任の取り方としてこれが認められるとすれば、虐殺された非戦闘員の市民や農民、あるいは補給の計画のないまま戦場に駆り出され、結局は「玉砕」、もしくは見捨てられた指揮官や兵士たちについてどのように理解すべきなのかが問われてくる。それ故、戦争について実態を知り、理解し、そのことを継承していく必要がある。
 溝橋事件を起こした当事者の一人の牟田口は、インパール作戦で「アッサム州かベンガル州で死なせてくれ」と語ったという(8)。しかし、彼は無事帰国し、上述のようなエピソードが残されている。ここには、旧日本軍における上層の仲間内で甘く、下層の部下に苛酷な組織体質が示されている。これもまた、構造的な差別の所産と言える。
 戦争の記憶を消し、歴史を忘却しよう、および、させようとする試みは、このような指揮者、指導者の戦争責任を問わないことに帰着する。既に、証拠隠滅は大規模かつ組織的に行われた。そして、証拠隠滅自体も隠されてきた。そして、戦争犯罪だけでなくその証拠隠滅の記憶さえもなくなれば、犯罪の隠蔽は完璧になり、完全犯罪が成功する。……『アイデンティティと戦争』pp.51ff参考。

戦争の問題は「平和のための教育」で


7)否定的アイデンティティ

 青年期以降の衰退の中で、成長・発達の原動力がなくなり、リビドー(心的エネルギー)の供給が低下し、謂わば「エンジン(発動機)」が不調になると、不完全な人格(人間は完全ではない)の問題が、生き方、ライフスタイル、生活習慣等々において、さらに歪むようになる。
 謂わば、心理的な生活習慣病
 その予防のためには自己分析が重要。

 人格の歪みがひどくなると、それに伴い人格が早く崩壊し始める。
 人格障害。

 高度情報社会の様々な刺激(特に有害情報)が、それに拍車をかける。


 しかし、地位や経済力が強いと、それで押し通し、周囲に被害や「悪臭」をまき散らす。


8)アイデンティティ形成後の言語

 自分に合った作家、文学に親しむ。

 自分で考えた自分の言葉、借り物ではない、自分の言葉で、自分を表現する。
 言論表現の自由が保障された社会において、

 たとえ、他者の言葉でも、
 フレイレ「言われたことを言うことは、実は言われたことをもう一度言うことではない。それは生きられた経験をもう一度生きなおすということであり、言われたことをくりかえして言う時間のなかで、言葉はあらたに生みだされていくのだ」(前出)


 グローバリゼーションにおいては、母語(生成語)、共通語(標準語)、外国語を使い分けることが求められる。

参考:
 キリスト教が伝来した時代、宣教師は日本語の翻訳に苦心惨憺し、これは悪魔が作った言葉だと慨嘆したというエピソードがある。ただし、それでも、だからこそ福音宣教と、日本語の習得、さらには辞書や文法書の編集に努めた。

 そして、イデオロギーの問題。
 「思考は言語で偽装する」(先述)


付記:
 心理学の言葉を知っている凡庸な「学者」より、繊細で鋭敏な作家や詩人の方がはるかに、心理を感得し、表現する。

・・文学作品を通して自己との内的な対話、自己分析が、癒しとなる。


9)全面発達

 遊戯、学習、労働、アソシエーションの統合

 ルソー『エミール』
 「農夫のように働き、哲学者のように考える」、「体の訓練と精神の訓練」*

 マルクスとエンゲルス『ドイツ・イデオロギー』
 「朝に狩りを、昼に漁を、夕べに家畜を世話し、夕食後には批判をすることが可能になり、しかも、決して狩人、漁師、牧人、或いは批判家にならなくてよいのである」*

 参考:日本の伝統では「晴耕雨読」

 その後、知育、体育、美育、徳育などの全面的な発達
 また、障害のある者の発達、成人、老人の衰退と発達と研究が発展




2-9.成人期:生成力vs.衰退、拒絶性/ケア

1)生成力vs.衰退vs.ケア

 「生成力」は子供を産み育てる、物を生産する、価値や意義・意味を創造するなど広義の生産、創造に関わる力である。
 経済学を援用すれば、「財」に働きかけて「効用」を増す力である。

 しかし、これが、老化による体力、記憶力、集中力、持久力などの能力の「衰退」において発達課題となり、両者の矛盾を止揚する弁証法が生起、起動することで発達が達成される。

 働き盛りでも能力は低下する。
 更年期や生活習慣病(旧称成人病)で、心身も変調、不調、悪化する。
 他方、子供は青年期に向かいますますエネルギー(リビドー)は高まる。

 そして、能力が衰えても、それまでに獲得した経験や社会的な「力」(所得、地位、コネ等々)があるが、それにもかかわらず、自分のためではなく、子供のためにという生き方を選べるか否かが、発達課題となる。

 さらにアイデンティティを再形成していく。


1-2)「加齢(aging)」
 「年齢」を「加える」という積極的な意味
 エイジングの進行形の含意

 年を重ねる=知識や経験を蓄積する。
 それを変化する時代、状況において活用できるか否かが課題となる。

1-3)結晶性知力と流動性知力(キャッテルとホーン)

 後者は衰えるが、前者は保持・発達できる。

 経験の「再構成」
 デューイはプラグマティズムとコミュニケーション論の観点から『民主主義と教育』において教育や成長発達を「相互作用と変化」を通した「経験の絶えざる再構成(reconstructing)」、「再組織(reorganizing)」、「変換(transforming)」と論じている* 。


 文化資本、象徴資本(ブルデュ)
 それを可能にするハビトゥス
 エリクソンとブルデュ、アイデンティティとハビトゥスの連関については、「アイデンティティと歴史の自己教育的研究」(Ⅰ~継続中)『大阪教育大学紀要』参照。

1-4)「シニア」(朝倉書店版『社会教育・生涯学習辞典』校正前の原稿)
 シニアは55歳前後から高齢期までを意味し、ほぼ中高年に相当する。年齢を重ねてもなお積極的に生きることが問われる思潮において注目されるようになった。1980年代後半から退職後を無為に過ごす男性に「粗大ゴミ」、「産業廃棄物」、妻にまとわりつく「濡れ落ち葉」、「コバン鮫」などフェミニズム的な揶揄が使われ、「定年離婚」や「熟年離婚」が関心を集めたのは、その社会問題としての現象である。この状況に対して三菱電機労組は先駆的に1977年から従来の組合運動の枠を超えて老後生活を考えるシルバープランを始めた。その10年後の87年、シニアプラン開発機構が厚生省(当時)の関連機関として設立され、調査研究と共に年金ライフプランセミナーやフォーラムを実施している。90年に外務省と国際協力機構(JICA)はシニア協力専門家事業を開始し、96年にシニア海外ボランティアと改称され国際協力事業団によって続けられ、相手国の人材育成を通して社会発展を支援すると共に、シニアの生きがい、働きがいの機会となることを目指している。


2)親子のミューチュアリティ

2-1)発達課題としての出産・育児
 女性ではさらに、不妊や流産などにより性嫌悪症や性恐怖症の症状
不妊は男性の方に要因がある場合もあるが、性差別が関わり、女性の方に負担・圧力が大。

制度的な支援
 「戦後日本で生まれた母子健康手帳のコンセプトは、いまやアジアやアフリカなど世界各国へと広まり、母子保健サービスを統合し、継続ケアに貢献するツールとして注目されています。アフリカのケニアでは、2010年4月からケニア公衆衛生省主導のもと、国際的な研究機関や国連機関、NGOなどの協力により全国的な利用が開始されました。
 本シンポジウムでは、5年前に日本の母子手帳に出会い「これはミラクルだ!」とすぐにファンになり、以降国内での普及活動に貢献されてきた、ミリアム・ウェレ博士をお招きし、未だ厳しい状況の残るアフリカの母子の健康に、母子手帳がどんな役割を果たせるのか、お話を伺います。母子手帳の最長利用国である日本が貢献できることを考えたり、反対に海外の事例から新たな気づきを得たりできる機会にもなればと思います。」
 日時:2014年7月23日(水)18:30~20:30(受付開始18:00)
 会場:国連大学(5F)エリザベス・ローズ会議場 (東京都渋谷区神宮前5-53-70)


2-2)壮年期の親の働き盛り/子供の育ち盛り

 成人期の第二次潜伏期と第二次勤勉性/学童期の潜伏期と勤勉性

 先述したように、学童期において、リビドーの活動が潜伏化し、性ではない物事にエネルギーを傾注する「勤勉性」が形成される。それは、第一次性徴が終わり、第二次性徴が始まる前の中間的期間、転換期である。
 これを敷衍すると、衰退し、リビドーの活動が弱まり、また夫婦で慣れ、お互いに性欲や生殖に関心が薄れ、むしろ、家庭や他の物事にエネルギーを傾注するようになることは、「第二次潜伏期」、「第二次勤勉性」と表現できる。

 しかし、第一次の「潜伏期」、「勤勉性」を体験しない、即ち、学習しなければ、成人期でこのように発達することが困難になる。
 倦怠期のクライシス(後述)。

 なお、先述したように、第一次の「潜伏期」、「勤勉性」であるべき発達段階において、性的刺激を過度に受けすぎると、性的依存症、淫乱、欲望の奴隷となる。
 そして、欲望の奴隷だけでなく、利己主義、自己中心の心性(自己チュー)まで加重されると、育児や家事が負担で、自分の好きなことを妨げると感じ、児童虐待やDVに走る。


2-3)母子密着
 母の母性愛/子供の小児性欲(自己中心的に快楽だけの追及=快楽原則)
 この母性愛は自己中心的な欲望、欲求に応じるという点で、ケア(博愛、慈愛)に通じる。

 子供が自律に進み、反抗しても、それを受けとめ、見守り、そして、自分から離れていくことまで受け入れる愛。
 産み育てた恩を売らず、報いを求めず、子供の幸せを願う。
 このような意味で、「ケア」は世代のサイクルにおける人間的強さ。
 それは「愛」が発達した「愛」以上の「愛」=博愛、慈愛。


 文学的な表現として
日本語で「母」は「海」の中にある(海は生命誕生の世界)。
フランス語でmere(母)の中にmer(海)がある。

「私の耳は貝のから/海の響(ひびき)をなつかしむ」(ジャン・コクトー/堀口大学訳)
 高校の時、この詩句を知り、大学の講義で、上記の「母」と「海」、mereとmerに引き付けて、だから「海の響きをなつかしむ」と教えられた。


2-4)観察例(ブログで発表)
女の魅力の活用 母と娘の「再生産」 卓越したセクシュアルな実践感覚の観察例
 2014年7月12日、午後2時15分頃、大阪・梅田の阪急デパート4階(高級ブランドの並ぶ階)にて、海外からの客人を案内し、それではしばらくショッピングでもお楽しみをと言って(実際には何も買わず、見学のみ)、私は椅子に座って休んでいた。
 前の通路を、母と娘と思われる二人が歩いていた。娘は小学校入学前の女児のように見えた。
 娘はふざけて、うちわで遊んでいたが、落とした。他に通行人が何人もいて、母はあわてて娘をたしなめた(叱るという程度ではなかった)。
 娘は振り返り、うちわを拾うと、そのまま数歩、母から離れるように歩き出した。母の言葉など聞こえない様子だった。その表情は、“おすまし顔”のように見えた。
 母は驚いてさらに娘を呼んだ。すると娘はパッと笑い顔になり「ママ、怒ってないわよね」と言って戻り、母と娘は手を繋いで去って行った。
 まだ園児のように見える発達段階の女児が、自分の失敗を、かくも見事にごまかして、自分の“面子”を保った!
 母がたしなめようとしたら、“おすまし顔”で、そ知らぬ様子で聞かないふりをして離れた。そして、母を慌てさせ、心配させ、たしなめることを躱(かわ)した。自分が可愛がられていることを十分に認識し、それを見事に利用したのである。
 それは時間としては十秒も経たない一瞬の出来事だったが、このような人間関係の戦略と実践を、女児は成し遂げたのである。
 私は、休憩用の椅子に座っていたので、女児の表情や振る舞いを観察できた。女児の“おすまし顔”がパッと笑い顔に変わるプロセス、うちわを拾いスタスタと歩く仕草など、「おませ」でも、「おしゃま」でも、「おちゃめ」でも、「こまっしゃくれた」でもなく、それぞれの少し手前のクリティカルで(臨界的で境界線上)、微妙で、女(自分)の魅力の発揮の仕方を十分に習得して、実践できた。
 まことに卓越した実践感覚であり、媚びになる一歩前で女の魅力を利用するという点で、既にセクシュアルな性質を帯びていた。
 私は、あ然として、目が点になる思いであった。
 その後、この方面に詳しい知人に話すと、そのような母と娘は4階ではよく見かけるとのことであった。
 親子の「再生産」であり、卓越した実践感覚が受け継がれているのであろう。それは、西田幾多郎・三木清を援用すれば、ゲネシス(生成)とポイエシス(制作)がハーモニックに作動して形成したハビトゥス(複合的習性)である。祇園、北新地、宝塚などの伝統で鍛えに鍛え、磨きに磨き、心身に染み込ませ、nature(自然、本性、性質)となった、習慣的に反応する実践感覚とも言い換えることができる。
 このような母と娘に出会う青年は、それに対応できる親と、その家庭教育を受けていなければ、手玉に取られて、翻弄されるのは必至である。


2-5)参考
 メルロ=ポンティの認識論
 「社会的癒合性(sociabitite cyncretique)」
 特に胎児期の母子一体、乳児期の母子密着との関連、交錯として

 ピアジェ的な「感覚運動期」において、モーリス・メルロ=ポンティは「癒合(syncretisme)」を認識する。
 これはフッサールの現象学の発展で、自己と他者が共通の状況の中で溶け合い、分かれていない状態を示す* 。
 そして彼は、この観点でアンリ・ワロンの「社会的癒合性(sociabitite cyncretique)」にも注目する* 。
 これは母子一体、母子密着が社会性の基礎になるという点で、個人、母子、親子、家族、地域……という重層的な人間と社会の理解を導く。
 ただし、同心円的な社会観に繋がり、現実を単純化してしまう危険性もある。

 この点で、メルロ=ポンティの以下の認識論的な問題意識は重要である。

『行動の構造』においては、「動物の行動や病的行動の<癒着的構造>」*

『見えるものと見えないもの』では、「見るものと見えるものとのこの不思議な癒着」*

『見えるものと見えないもの』に収録された「研究ノート」の中の「真理の起源」と題されたノートでは「弁証法ならざる『発酵をとめられた』弁証法」*


2-6)エディプスの父/エディプス
 夫・父は、妻・母を追体験し、学び、「ケア」の人間的強さを獲得する

 子供のエディプス期、さらに反抗期に対応し、
 「エディプスの父」になるかどうかは、父の発達課題


2-7)エレクトラの母/エレクトラ

 「白雪姫の母」コンプレクス(山田の用語)
 娘が思春期になった時の母の嫉妬。
 それは、母の発達の失調。
 →児童虐待

 グリム童話初版では白雪姫の実母で、継母になったのは初版以降。元の説話が実母であった可能性が高い(児童虐待の歴史の反映)。

 『アイデンティティと時代』pp.154-155の「幼なじみ」とその母(これについては詳述していない)。

 これらの発達課題を達成し、
 子離れ/親離れ

 さらに、親子のミューチュアリティを拡大すると「世代のサイクル」となる(後述)


2-8)子離れ/親離れ
 「児やらひ」/反抗期
 その残存形態としての親子ゲンカ


2-9)エディプス・コンプレクス、エレクトラ・コンプレクスのより深い理解のために
 フロイト派精神分析の歴史的制約、ジェンダーに関わる当時のイデオロギー、差別
 そして、狂気と正気の関連などに関わり

 「アンナ・O(本名ベルタ・パッペンハイム)」のアイデンティティと時代。
 彼女は、ヒステリー患者として精神分析を受け、治療できないと診断されたが、その後は女性解放運動を実践した。即ち、彼女は精神分析者から見捨てられた後に独自にクライシス(危険=機会)を乗り越え、さらには社会を変革する実践を進めたのである。ここにはアイデンティティと時代、ライフヒストリーとヒストリカル・モメントのダイナミックな弁証法の一例があり、この点でフロイトとフロイト派精神分析は批判されなければならない。
 ジュディス・ハーマンは「初期の研究者の中でヒステリーの探求をその理論的帰結に至るまで追求したただ一人の人はブロイアーの患者であったアンナ・Oである」と評価し、また同時に、この「探求」は「女性と幼小児への性的圧制」の認識に至り、それ故「フェミニズム」に関わらざるを得なくなるが、しかし、これは「家父長的価値」や「学者的出世願望」に制約されたフロイトには不可能であったと批判している* 。
 さらに、ハーマンはパッペンハイム(アンナ・O)は「患者」の側から「お話し治療(talking cure)」を「発明」したと述べている* 。この実践には治療者と被治療者の位置関係や力関係を捉え返すという意味で、下から上へ向かう心理社会的コミュニケーション的なベクトルが認められる。そして、これと専門的能力を有する治療者から悩み苦しみ助けを必要とする弱い被治療者へのベクトルを組み合わせると、対話的な関係や実践が導き出される。
 それは下意上達と上意下達、ボトムアップとトップダウンの弁証法とも言える。


2-10)女性と非暴力
 女性は、妊娠・出産(さらに育児)の時は攻撃には全く不利、故に、非暴力を基本とする。非暴力が妊娠・出産を身体に埋め込まれた女性の基本的条件と言える。


3)「ケア」:愛の更なる発達:衰え弱くなる中での人間的強さの発達

ケアの内容として、
 世話、思いやり、気遣い、共感、惻隠、慈愛、博愛等々。

 民主的な家庭で、子供が自立した市民となることを目指すことと、ケアは相関する。封建的家父長的な親の情愛ではない。

 小児性欲-忠誠-愛-ケア-叡智の発達において、青年期の「忠義」というような一途で一方向的な他者愛から、若い成人期の自己愛と他者愛の統合を経て、成熟し、一次元高い他者愛へと向かうという、正~反~合、或いは否定の否定の弁証法と捉えることができる。

3-1)「ケア」を通した「人間的強さ」の増強
 妻がいるから頑張れる。
 子供がいるから頑張れる。

 学生時代、葛飾の地域で教育文化運動に傾注していた時期(『アイデンティティと時代』参照)、非行から不良、チンピラへ進むギリギリのような青年が、愛する伴侶と出会い、生き方が見違えるほど変わり、しっかりと働くこともできるようになった(「魔女」さんから聞いたが、直接会ったことはないので、『アイデンティティと時代』では書いていない)。

3-1-1)危機の防止
 以前、知人のトラック運転手で、運転の邪魔にならないが、目に入るところに家族の写真を置いていた。私が「いいね」と言うと、「何かの時に目に入ると、安全運転しなければと気を引き締められるんだ」と答えた。

3-1-2)「ヒヤリ、ハット」
 妻を亡くし、4人の息子を男手一人で育てるため、会社を辞め、家の修理、掃除、庭の剪定等々「何でも屋」となった知人(同じ教会に通う信者)は、トラックの運転も時に引き受けていた。
 彼は「ヒヤリ」としたら、「それをシッカリと覚えることが、何しろ事故を起こさないことになる」と語った。そうして、息子たちのために黙々と頑張っていた。


3-2)カウンセリングにおける「共感(empathyとcompassion、共苦)」

 甘やかしとの識別。当人の自律・自立を求める厳しさ。
 クライエントは様々に弁明し、言いつくろい、言い抜け、さらにカウンセラーの気を惹き、また懐柔して、自分の問題を克服する努力、それに伴う苦痛を回避しようとする。
 子供を甘やかさず、可愛いからこそ厳しく育てることに通じる。

3-2)漢字の語源から

 心理歴史的に「憐れみ」の語源について見ると、この「憐」は、心と心が「隣」同士で、並ぶという状態を指している。


3-1)ケアから博愛などの徳=活力(virtue)、人間的強さ、精神へ

自分がケアされたいように、他者をケアする。

3-1-1)ヘブライズム
自分を愛するように隣人を愛する。黄金律
 キリスト教的な「隣人」の理解、「隣近所の人」ではない。
 例えば「隣保事業」、「隣保館」など(セツルメントのハウス)。

聖書「レビ記」第19章18節
「己のごとく汝の隣を愛すべし」
「マタイ傳」第19章19節、「ガラテア書」第5章14節
*既述したように、隣人愛、博愛、人類愛、平和

善きサマリア人の譬え「ルカ傳」第10章25節から
 強盗に襲われ路上に半死半生で倒れた人がいた。祭司やレビ人は見て見ぬふりをして、道の反対側を通り過ぎた。しかし、サマリア人(ユダヤ人から見れば他民族と混血で、読む聖典も異なるのがあり、「異端」として差別されていた)は助けた。
 ユダヤの人であったイエスが、民族の異なるサマリア人を賞賛した。その普遍性、、

「コリント前書」第13章3-13節
「愛は寛容にして慈悲あり。……げに信仰と希望と愛と此の三つの者は限りなく存らん。而して其のうち最も大なるは愛なり。」

「ガラテア書」第5章13節
「自由を肉に従ふ機會となさず、反つて愛をもて互に事へよ」

「汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。……汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。これ天にいます汝らの父の子とならん為なり。天の父は、その日を悪しき者のうへにも善き者のうへにも昇らせ、雨を正しき者にも正しからぬ者にも降らせ給ふなり。……汝らの天の全きが如く、汝らも全かれ」(新約聖書・マタイ傳・5章39-48節)
ゲッセマネで「すべて剣をとる者は剣にて滅ぶ」(マタイ傳・26章52節)
十字架上で「父よ、彼らを赦し給へ、その為す所を知らざればなり」(ルカ傳・23章34節)

「使徒行傳」20章35節
 「與ふるは受くるよりも幸福なり」

 なお、これができなくなる老化による無力化と、死による完全な断絶が老年期、第九段階(後述)
 死を全て失うことと考えるか、或いは全てを若い世代に与えるかと認識するか。それが老年期の発達課題。

3-1-2)「隣人」について
 在日外国人のブーン(モーリー)は、「日本の倫理には"Thou shalt love thy neighbour as theyself(thyselfの誤り)”というキリスト教道徳の根本にある戒告に相当するものはないように見える。聖書の日本語版では、英語の“neighbour”が、『隣人』という、ふつうはあまり使われず、『隣に住んでいる人』の意味に翻訳されていることを、ブーンは発見した。『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』という日本語訳では、効果が薄いのは無理もなかった。いかにも翻訳くさかった。実際、“neighbour”という言葉で意図されたことを、日本語の翻訳でただひとつ効果的に伝えられるのは、『他人』という言葉だろう。『身内を愛するごとく他人を愛せ』という翻訳は、日本の倫理の中では、驚異的で革命的な概念といっても過言ではなかった。」*

 また、彼は、土居健郎の『甘えの構造』の「恥」の議論は「なじみがなかった」。
「日本人は恥ずかしさを抱かせる状況が多いように見えるが、そういった場合、ヨーロッパ人の場合は、全体として感じないか、あるいは見とめないかなのであった。ブーンの経験では、恥ずかしさの原因は、その人が悪いことをしたのでも馬鹿にされたのでもなく、ただたんに目だったのに過ぎないことが圧倒的だった。」(傍点原文)*


3-2)先述の「惻隠」(孟子)に加えて、「恕」
 『論語』衛霊公篇で、子貢が生涯行うべきことを一言でいうと何でしょうかと尋ねると、孔子は「恕」と答えたことが記されている。

ガンディーのヒンドゥー的不殺生の非暴力不服従
 さらに、マハトマ・ガンディーは大英帝国の植民地支配に対して非暴力で抵抗し、独立運動を指導し「卑怯か暴力かのどちらかを選ぶ以外に道がないならば、わたしは暴力を勧めるだろうと信じている。(中略)けれどもわたしは、非暴力ははるかに暴力にまさることを、敵を赦すことは敵を罰するより雄々しいことを信じている。宥恕は武人を飾る」と述べた(ガンディー/森本訳、一九七〇年、第一巻、五頁)。
 フランスにいた高田博厚は、ガンディーに言及し「『たとえ殺されても戦争はしない』という勇気と熱情」を、日本社会に提起していた(「ある詩人へ」『フランスから』朝日新聞社、一九七三年、一〇五頁、執筆は四九年)。
 そして、エリクソンは「戦闘的非暴力」と概括している。
  *山田『希望への扉―心に刻み伝えるアウシュヴィッツ―』pp.241-241参照。

 日本の場合、儒教の惻隠、仏教の慈悲などが複合し、禅の性格が濃い茶道における一期一会などの実践倫理となった。
 生涯教育の「出会い、触れあい、学びあい」も、この精神で。


4)労働における発達:働き盛り

 衰退においてなお、労働力、人的資本、人材、「人財」として働き、後進を育成する。
 転職、再教育、再訓練、そしてアイデンティティの再形成

4-1)「シニア」(前掲、朝倉書店版『社会教育・生涯学習辞典』原稿の補充)
 入社後の「フレッシュ・プラン」、30代の「ヒューマン・プラン」、40代の「シルバー・プラン」とその後の「リ・デザイン・プラン」、50代の「ゴールド・プラン」、定年退職後の「ダイヤモンド・プラン」と、生涯生活設計が作られた。

奥井礼喜
 略歴:1963年に島根県江津工業高校を卒業し三菱電機に入社し、66年に三菱電機労組猪名野支部執行委員、72年同支部執行委員長、74年三菱電機労組中央執行委員、情宣部長、82年に独立し「コンサルタント業務を幅広く手がける」(『「やる気」の自主管理』著者略歴等)。

三菱電機労働組合(奥井礼喜編)『中高年危機の処方箋:つつましくけなげな中高年像からの出発』1978年
三菱電機中高年問題研究委員会編『中高年危機に備える』時事通信社、1980年
「あとがき」は、委員として奥井が執筆している。p.205
この委員会は78年末から約1年間活動した。
「ゴールド・プラン:マイライフへのオリエンテーション」はワークシートをファイルに綴じたもので、三菱電機の会社と労組が共同して1980年に作成した。
「シルバープランで人生の勝利を」はワークシートをファイルに綴じたもので、労組中高年プロジェクトが1981年に作成した。ゴールドプランよりもかなり分量がある。

奥井礼喜『老後悠々:「シルバープラン」の実践』日本経済新聞社、1980年
『労働組合が倒産する:美的に大胆に菜ッ服から飛び出せ』総合労働研究所、1981年
『マイ・ライフ・ストラテジー』総合労働研究所、1983年
『「やる気」の自主管理』労働基準調査会、1983年

松山美保子『産業ジェロントロジー:中高年の適職開発はどうあるべきか』日本経営出版会、1976年

日立総合計画研究所『中高年対策を中心とする企業の新たな試み』総合研究開発機構、1980年。
賃金・人事管理システムの「再構築」、「能力再開発システム」の創出、ライフサイクルに即した「働きがい」の実現が提唱されている。

 その10年後の87年、シニアプラン開発機構が厚生省(当時)の関連機関として設立された(先述したので、以下略)

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