「温故1942」と「蝗」を読む 「河南の会戦」における日本軍の中国飢餓難民救済の再評価のために
積極的平和主義、平和維持活動、人道支援、さらには人道的介入という脈絡で、日本の動勢が新たな段階に進もうとする状況において、1943~44年、中国・河南の大飢饉に対する日本軍の救援活動が中米のプロパガンダでかき消された歴史は教訓とすべきである。
1)
劉震雲の中篇小説「温故一九四二」(劉燕子訳『温故一九四二』中国書店、二〇〇四年)では、河南の大飢饉(人災が引き起こした干害・蝗害の大災害)により、約三千万の人口の一割が餓死するという悲惨な状況と、その中を進駐した日本軍が難民に軍糧を供出し、救援することで大災害を終息させた歴史が生き生きと描かれている。言動や表情などは作家のイマジネーションが駆使されているが、基本は史実に基づいており、歴史を考える参考となる実録小説である。
日本では田村泰次郎の短編小説「蝗」(一九六四年)に、この大災害の一部の蝗害が触れられている。しかし、飢餓とは言え、食料ではなく、セクシュアリティに関する日本兵の心理的「飢餓」で、ストーリーは日本軍兵士と朝鮮人「慰安婦」を軸に展開している。これもまた従軍した田村の体験に基づく実録小説であり、「温故一九四二」と重ね合わせると歴史認識が深まる。言い換えれば、「温故一九四二」では中国難民の視点から主に日本軍の救済が述べられ、「蝗」は日本兵の視点から主に性愛の飢餓と、それに反比例した「慰安婦」への欲望の激発が書かれており、蝗害については、「大群」に対して農民が「自分たちの土地からよその土地へ追っ払うのに、銅鑼や、鉦を、気ちがいのように、昼も、夜も、叩きつづける」ことが述べられる程度で*1、大規模な餓死についてまで取りあげられていない。なお「温故一九四二」第七章ではシーツを竹竿に巻き付け振り回し追い払う、畑と畑の間に大きな溝を掘り移動を阻む、神頼みの三つの方法が記されている。
ただし、明示的ではないが、結びで朝鮮人「慰安婦」の秘部と太腿の間を這う「褐色の蝗」という描写はエロティクのみならず、不気味である。そこにはエロスとタナトスが凝縮されていると読める。そして、蝗に表象されるタナトスは蝗害による無数の餓死者である。つまり、田村は大飢饉について十分に承知していたが、文学的な観点から明示しなかったと分析できる(分かる者が読めば、より深く味わえる)。
2)
それぞれに視点に制約されているが、それでも実録小説として、文学的にも歴史的にも、その意義は大きい。
これを踏まえた上で、やはり小説であるため、歴史研究としての検証が求められる。中華人民共和国では厳しい言論統制下で、しかも自民族の負の歴史ばかりか、日本の正の歴史に関する研究は数少ない。それでも、宋致新編著『1942河南大飢荒』(湖北人民出版社、二〇〇五年)が出版され、さらに台湾では、その『増訂本・1942河南大飢荒』(霊活文化、台北、二〇一三年)や孟磊、関国鋒、郭小陽編著『1942飢餓中国』(劉震雲専家顧問、華品文創、台北、二〇一三年)が公刊された。それは『温故一九四二』を補強するものである。
また、日本側の文献では(『戦史叢書一号作戦(1)河南の会戦』(防衛庁防衛研修所戦史室、朝雲新聞社、一九六七年)や兵士の手記・回想もある。
これらと「温故一九四二」には重大な相違はなく、従って「温故一九四二」は、優れた作家(劉震雲は中国で著名)が、史実に基づき、登場人物の言動に文学的な想像力・創造性を付加して価値を高めたものと認識でき、それ故、歴史認識に関しても注目すべき意義を有する。
3)
前掲『1942飢餓中国』の第一章では、蒋介石率いる国民党軍の無差別破壊「焦土作戦」の一つ「黄河決壊(花園江決堤)事件」(火の対極の水だが同類)について述べられている(pp.16ff)。これは大飢饉の原因を捉えるために重要である。
その五年前、一九三七年一二月、日本軍は南京に進駐し、その後も国民党軍を追撃した。これに対して、国民党軍は一九三八年六月、「黄河決壊事件」を実行した(中国でしばしば用いられる「焦土作戦」の一つ。火と水は正反対だが性質も結果も同様なので「焦土作戦」に含める)。現在では、国民党軍が日本軍に打撃を与えるべく意図的に黄河を氾濫させたことが明らかになっているが、当時、蒋介石政権(重慶)は、決壊は日本軍によるものだと宣伝した。
この大規模な破壊(人災)の被害は甚大で、自然環境が荒廃し、四年を経て、一九四二~四三年、河南省を中心に干害と蝗の虫害が複合した大災害が起きた。
ところが、蒋介石政権は「焦土作戦」に止まらず、過大な課税、徴発、徴用を強引に押し進め、その結果、民衆はますます疲弊し、大飢饉が起きた。蒋介石政権は救援や復興など全く考慮されず、わずかに外国人の宣教師たちのボランティアの救援活動があるだけだった。
このため、救援活動は焼け石に水の如く、この人災と天災の複合的大災害はいつ終息するか、全く展望の持てない絶望的な状況が続いていた。しかし、先述したように日本軍が軍糧を供出して飢餓難民を救援し、大災害を終息させた。
4)
ところが、この時期、アメリカでは、『タイム』誌一九四三年三月一日号の表紙に宋美齢(蒋介石の妻)の肖像が掲載されるなど、蒋介石夫妻をヒーローに祭り上げて助勢するプロパガンダが展開されていた(前掲『1942飢餓中国』p.146にコピーが収録)。このジェノサイド的な無差別破壊作戦を黙認したどころか、プロパガンダで暴政を助勢したのである。この問題と道義的な責任は、歴史に明確に記録されなければならない。
さらに、プロパガンダは日本軍の「侵略」を全面に押し出し、難民救済が正当に評価されないどころか、隠蔽され、その被害を転嫁された。
しかも、民衆が歓迎したものの、「当時の敵の出方を簡単にいうと、蓋をあけてみたら赤くなっていた」という結果である(方面軍参謀長大城戸三治中将の回想)*1。順調に進駐から統治へ進んだと思っていたら「赤」=共産党が勢力を拡大していたというのである。これでは、侵略の非難を受け、漁夫の利はさらわれ、まさに骨折り損のくたびれもうけと言わざるを得ない。
その上、現在もなお日本の戦争責任が問われ続ける(政治・外交の利用・悪用の傾向さえ強い)一方、この難民救済は歴史に埋もれたままであある。プロパガンダと史実の隠蔽が今もなお持続しているとさえ言える。
5)
これから日本は積極的平和主義、集団的自衛権という政策に沿って、国際社会で新たな責務を担うようになると思われる。その際、「河南の会戦」は再考に値する。それは、天災と暴政による人災の人道的な危機に対する人道的介入、人道支援の側面(部分)もあるからである。その史実を再評価しつつ、プロパガンダによる攻撃と責任転嫁などをしっかりと教訓にしなければならない。
1)
劉震雲の中篇小説「温故一九四二」(劉燕子訳『温故一九四二』中国書店、二〇〇四年)では、河南の大飢饉(人災が引き起こした干害・蝗害の大災害)により、約三千万の人口の一割が餓死するという悲惨な状況と、その中を進駐した日本軍が難民に軍糧を供出し、救援することで大災害を終息させた歴史が生き生きと描かれている。言動や表情などは作家のイマジネーションが駆使されているが、基本は史実に基づいており、歴史を考える参考となる実録小説である。
日本では田村泰次郎の短編小説「蝗」(一九六四年)に、この大災害の一部の蝗害が触れられている。しかし、飢餓とは言え、食料ではなく、セクシュアリティに関する日本兵の心理的「飢餓」で、ストーリーは日本軍兵士と朝鮮人「慰安婦」を軸に展開している。これもまた従軍した田村の体験に基づく実録小説であり、「温故一九四二」と重ね合わせると歴史認識が深まる。言い換えれば、「温故一九四二」では中国難民の視点から主に日本軍の救済が述べられ、「蝗」は日本兵の視点から主に性愛の飢餓と、それに反比例した「慰安婦」への欲望の激発が書かれており、蝗害については、「大群」に対して農民が「自分たちの土地からよその土地へ追っ払うのに、銅鑼や、鉦を、気ちがいのように、昼も、夜も、叩きつづける」ことが述べられる程度で*1、大規模な餓死についてまで取りあげられていない。なお「温故一九四二」第七章ではシーツを竹竿に巻き付け振り回し追い払う、畑と畑の間に大きな溝を掘り移動を阻む、神頼みの三つの方法が記されている。
ただし、明示的ではないが、結びで朝鮮人「慰安婦」の秘部と太腿の間を這う「褐色の蝗」という描写はエロティクのみならず、不気味である。そこにはエロスとタナトスが凝縮されていると読める。そして、蝗に表象されるタナトスは蝗害による無数の餓死者である。つまり、田村は大飢饉について十分に承知していたが、文学的な観点から明示しなかったと分析できる(分かる者が読めば、より深く味わえる)。
2)
それぞれに視点に制約されているが、それでも実録小説として、文学的にも歴史的にも、その意義は大きい。
これを踏まえた上で、やはり小説であるため、歴史研究としての検証が求められる。中華人民共和国では厳しい言論統制下で、しかも自民族の負の歴史ばかりか、日本の正の歴史に関する研究は数少ない。それでも、宋致新編著『1942河南大飢荒』(湖北人民出版社、二〇〇五年)が出版され、さらに台湾では、その『増訂本・1942河南大飢荒』(霊活文化、台北、二〇一三年)や孟磊、関国鋒、郭小陽編著『1942飢餓中国』(劉震雲専家顧問、華品文創、台北、二〇一三年)が公刊された。それは『温故一九四二』を補強するものである。
また、日本側の文献では(『戦史叢書一号作戦(1)河南の会戦』(防衛庁防衛研修所戦史室、朝雲新聞社、一九六七年)や兵士の手記・回想もある。
これらと「温故一九四二」には重大な相違はなく、従って「温故一九四二」は、優れた作家(劉震雲は中国で著名)が、史実に基づき、登場人物の言動に文学的な想像力・創造性を付加して価値を高めたものと認識でき、それ故、歴史認識に関しても注目すべき意義を有する。
3)
前掲『1942飢餓中国』の第一章では、蒋介石率いる国民党軍の無差別破壊「焦土作戦」の一つ「黄河決壊(花園江決堤)事件」(火の対極の水だが同類)について述べられている(pp.16ff)。これは大飢饉の原因を捉えるために重要である。
その五年前、一九三七年一二月、日本軍は南京に進駐し、その後も国民党軍を追撃した。これに対して、国民党軍は一九三八年六月、「黄河決壊事件」を実行した(中国でしばしば用いられる「焦土作戦」の一つ。火と水は正反対だが性質も結果も同様なので「焦土作戦」に含める)。現在では、国民党軍が日本軍に打撃を与えるべく意図的に黄河を氾濫させたことが明らかになっているが、当時、蒋介石政権(重慶)は、決壊は日本軍によるものだと宣伝した。
この大規模な破壊(人災)の被害は甚大で、自然環境が荒廃し、四年を経て、一九四二~四三年、河南省を中心に干害と蝗の虫害が複合した大災害が起きた。
ところが、蒋介石政権は「焦土作戦」に止まらず、過大な課税、徴発、徴用を強引に押し進め、その結果、民衆はますます疲弊し、大飢饉が起きた。蒋介石政権は救援や復興など全く考慮されず、わずかに外国人の宣教師たちのボランティアの救援活動があるだけだった。
このため、救援活動は焼け石に水の如く、この人災と天災の複合的大災害はいつ終息するか、全く展望の持てない絶望的な状況が続いていた。しかし、先述したように日本軍が軍糧を供出して飢餓難民を救援し、大災害を終息させた。
4)
ところが、この時期、アメリカでは、『タイム』誌一九四三年三月一日号の表紙に宋美齢(蒋介石の妻)の肖像が掲載されるなど、蒋介石夫妻をヒーローに祭り上げて助勢するプロパガンダが展開されていた(前掲『1942飢餓中国』p.146にコピーが収録)。このジェノサイド的な無差別破壊作戦を黙認したどころか、プロパガンダで暴政を助勢したのである。この問題と道義的な責任は、歴史に明確に記録されなければならない。
さらに、プロパガンダは日本軍の「侵略」を全面に押し出し、難民救済が正当に評価されないどころか、隠蔽され、その被害を転嫁された。
しかも、民衆が歓迎したものの、「当時の敵の出方を簡単にいうと、蓋をあけてみたら赤くなっていた」という結果である(方面軍参謀長大城戸三治中将の回想)*1。順調に進駐から統治へ進んだと思っていたら「赤」=共産党が勢力を拡大していたというのである。これでは、侵略の非難を受け、漁夫の利はさらわれ、まさに骨折り損のくたびれもうけと言わざるを得ない。
その上、現在もなお日本の戦争責任が問われ続ける(政治・外交の利用・悪用の傾向さえ強い)一方、この難民救済は歴史に埋もれたままであある。プロパガンダと史実の隠蔽が今もなお持続しているとさえ言える。
5)
これから日本は積極的平和主義、集団的自衛権という政策に沿って、国際社会で新たな責務を担うようになると思われる。その際、「河南の会戦」は再考に値する。それは、天災と暴政による人災の人道的な危機に対する人道的介入、人道支援の側面(部分)もあるからである。その史実を再評価しつつ、プロパガンダによる攻撃と責任転嫁などをしっかりと教訓にしなければならない。
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