限界状況における安全に関する考察 『社会教育学研究』第31号 積極的平和主義と武士道の今日的意義
Ⅱ 限界状況における安全に関する考察
―アイデンティティと人間的強さの観点による日本と海外のプレーヤーの経験論的比較―
(生涯教育組織論特論共同研究)
今柳田剛生、山田正行
生涯教育組織論特論では、2013年度では防災に即して安全と社会教育実践に関する共同研究を行った。2014年度では、スポーツ指導の経験を踏まえ、選手が限界を突破しようとする危機(危険かつ機会)的な限界状況における安全の共同研究を進めた。
今柳田のトレーナーとしての豊富な経験に基づき、アクション・リサーチ的に、限界に挑戦し、突破しようとするスポーツ・プレーヤーの強さ、その指導に関して日本と海外(主に米国)の比較考察を行った。そして、プレーヤーは己と闘いつつ、他者と競いあい、戦いあうことから、考察を武士道へと進めた。これは戦/闘う者の安全という意味で、防衛と社会教育実践を考えるための参考となる。
特に現在、積極的平和主義に沿って人道支援や平和維持活動がさらに展開されようとしているが、当然、危険性も高まり、現場の隊員が限界状況に置かれる可能性も高まる。人道的介入まで遂行するようになれば尚更である。
その時に求められるのが、心身の基軸にある「人間的強さ(human strength)」である。そして、日本人としてこれが具体化する時、日本的アイデンティティが問われる。それぞれ普遍と個別、抽象と具体という関係性において、いずれも重要である。そして、日本的アイデンティティは日本の精神史を通して形成され、そこにおいて武士道は重要な位置を占めている。
極めて危険な任務に就く日本人にとって、武士道は身を守る武器や組織とともに心理的な強さを与えると考える。これは任務を終え、安全な日常生活に戻り、緊張が解けた時に蠢き出すようなトラウマに対しても有効である。「獅子身中の虫」という。内心の問題を軽視してはならない。安直に緊張を解くのではなく、リハビリのようにバランスをとって緊張を緩和するためにも、常に死を意識して生きる死生観の武士道は有意義である。
1.先手必勝-ナイフを両者の間に置き、刺された方が負けの決闘-
これはスポーツと国民性、民族的なアイデンティティを考えるための、あくまでも比喩、参考であるが、アメリカのスラム街の決闘について述べる。
そのやり方は、ナイフを両者の間に置き、刺された方が負けとなる。そして、スラム街の少年達は、直ぐにナイフを取ると答える方が多いと聞く。もちろん、ナイフを取ろうと手を伸ばすと、姿勢が低くなり、頭や背中を相手に見せ、隙ができる。そのため、相手の様子をうかがいながらナイフを取らねばならないが、何よりも先手必勝なのである。そして、たとえ隙を突かれて頭や背中を攻撃されても、頭突きで突破してナイフで刺すという捨て身の戦法もある。
次に、肩(三角筋の外側面)を一発ずつ殴り合い、「痛いっ!」と言った方が負けで、勝者には一万円という賭について言えば、やはりスラム街の少年達は「一発で気絶させれば、殴られることなく、お金を貰える」と考えるという。決闘のみならず、賭でも先手必勝である。
ところが、日本のプレーヤーに同じ質問をすると、これまでの経験では、九割以上が後攻を選ぶ。それは、相手の攻撃強度に乗じて、こちらの強度を変えられるからである。謂わば「後の先」である。
これを踏まえると、この国では、或いはこのような国民性では、先手必勝はないと読まれてしまうことになる。
2.50m10本Full Dush
50メートルをFull Dush(全力疾走)で10回という練習がある。日本人選手の場合、50mを走り切るつもりでも、ゴールが近づくと減速し、50mで止まる事が出来るような速度で走る。つまり、48mで既に減速を終え、いつでも止まることの出来る速度で50mを通過し、すぐに停止する。
50メートルをFull Dushとは言え、これを10本走り切るためには、7~8割のDushにしていながら、選手は100%で走っているつもりになる。
しかも、経験の浅い1年生などが、1本目からFullで走ると、先輩などから「そんな飛ばしたら、最後まで、走られへんぞ!」などと、怒号が飛ぶ。
これは、まさに「みんなでゴール」の現れである。それは、手抜きだが(足で走るが、あくまでも比喩として)、その手抜きも、みんなで抜けば、本人が抜いているのかさえ曖昧になり、分からなくなる。
漫才ブーム(1980~82年)の時期に流行した「赤信号みんなで渡れば怖くない」(ビートたけし)は、象徴的である。その十数後、1990年代に、学校では、競争を問題視する余り、悪平等に走り、運動会の徒競走で同時にゴールなどという指導まで現れた*1。これは教師が子供に競争させ、勝っても奢らず、負けても挫けないように指導することの回避であり、まさに手抜きである。そのため、子供は健全な闘志(闘争本能の発達形態)や克己心を錬成できない。これらは生きる力に結実する重要な心的強さだが、それが育たない。
教育者は、競争をさせないという悪平等に励むのではなく、子供が大人になり、社会で様々な困難に直面しても、乗り越えていく健全な闘志、克己心、生きる力の育成に努めるべきである。しかし、それがないがしろにされた。
このような状況では、スポーツの練習でも、社会の風潮に影響され、皆が暗黙に手を抜き、最後に帳尻を合わせる。確かに、それでも、国内では通用し、ある程度は勝てるが、しかし、国際競争では負ける。そして、負けても全員で泣くので変わらない(試合後に泣くことは後述)。
また悪平等は「甘え」や言い訳を誘発する。それに呼応して、偽善的な悪平等で弱くしながら、アリバイ的に支援を見せびらかす。
「一生懸命だと知恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いい加減だと言い訳が出る」というディスクールは、偽善的な「甘い」共感や支援より有意義である。
付記:
「赤信号みんなで渡れば怖くない」が流行した時期、ユーゴスラヴィア(当時)の大使館員で、友人のネナード・ブルギッチは、次のように語った。
「日本人はいつもみんなでワッショイ、ワッショイと神輿を担いでいるようだ。ユーゴ人は違う。野球で、ボールが来るまでジッとポジションに立っていることなどできない。しばらくすると観客とおしゃべりしたり、ビールを飲んだり、どこかに行って昼寝するだろう。ボールが来なくても、いつも動いているサッカーやバスケットボールでなければだめだ。」
ユーモアの中に鋭い観察眼が光っていた。そして実際、一九八三年から八四年にユーゴスラヴィアに留学すると、サッカーやバスケットボールが盛んであった。
なお、一九八四年、サラエボ・冬期オリンピックで国威を発揚した後、一九八九年にベルリンの壁が崩壊し、ユーゴでは危機が深まり、内戦が激化する中で、ブルギッチはドナウ川で水死体となって発見された。激動期における犠牲者の一人であり、まことに惜しまれる。
イヴォ・アンドリッチ(1961年ノーベル文学賞受賞)は「すべては橋です」と語ったという(セルボ・クロアチア語の学習のため田中一生訳注『ドリーナの橋』大学書林、一九八五年、p.xxiii)。教養ある外交官のブルギッチは「橋」になろうとしたが、落とされたと思った。
3.FullDashの一本目と二本目―日米比較
筋肉内のエネルギー源にATP(アデノシン3リン酸)がある。ATPは、ADP(アデノシン2リン酸)+ P(リン酸)に分かれるとき、最大の筋力を発揮する。
一度に、最大筋力で、ATPを使い切るまでの時間は、本来は数秒(second)、長くて10secと言われている。そして当然、ATPを使い切ると、再合成されなければ、再度最大筋力を発揮することはできない。この再合成に掛かる時間は、60~90secと言われている。
これを踏まえてFull Dashの日米比較を行う。
一本目のFull Dashの後、60~90sec休まなければ、トップスピード(最大筋力)は出せない。そして10本連続であれば、二本目で極端にスピードが上がらない事は、科学的に見れば、当然である。それ故、アメリカでは、二本目にスピードが上がるプレーヤーの評価は低い。
ところで、体力測定のルールは二本目を実施し、二本目の方の記録が良ければ、記録が落ちるまで、実施する。しかし、二本目の方が良いのは、アメリカでは一発目にMaxを出せないプレーヤーで、不名誉なこととされ、プレーヤーは二本目は考えない。他方、日本の多くのスポーツ現場での体力測定では、測定毎に記録が伸びるプレーヤーを賞賛する傾向がある。
そのため、日頃から、無意識に、練習ではリミッター(限界)を働かせ、“一夜漬け”のように試合の時にだけ、それを外そうとする。しかし、リミッターを外しても、それは未知の能力で、操作できる訳もない。また、日頃の意識で操作を行うと、リミッターの外と内の間でズレが生じ、いつもと違う動きになる。確かに、時には、良いパフォーマンスもできるが、概ねコントロール不能となり、ミスを犯す。
しかし、そのような実状を理解できず、“今のは、たまたまだ”と、問題を探究しないのが多い。そして次に、同じようなミスが起ると、意味なく“おかしいな”と頭を傾げ、“本来ならこんなミスはしないはず”と周りにアピールする。
しかし、焦って調整しようとしても、上手く行かないので更に焦る。さらに周りからは“プレッシャーに弱い。緊張に潰される”などと思われ、負のスパイラル(負の連鎖、悪循環)に巻き込まれ、もがけばもがくほど抜け出せなくなる。周囲から掛けられる声にも、焦りで対応できず、攻められているように受け止めてしまい、直ぐにキレ返す。このような負のスパイラルのためコミュニケーションが成立せず、周りは気を遣い話しかけなくなり、また本人は疎外感を感じ、自ら働きかけない。そのうち、誰も解ってくれないと「悟り」のような境地に至る。このようにして、謂わば「村八分」の状態が完成する。
たとえ気づいても、周りが動かないのでやり過ごし、結果が出てから、あの時に気づいていたけど、仕方ないと納得し、やり過ごす。このようにして、意見を出さない事・目立たない事が良しとされ、意見を求められても、周りの顔色を気にし、空気を読むように教育されていく。個人の意見を押し殺し、周りと同調し、決してアクションを起こさない。そのため、リテラシー(読み書き計算レベルの基本的な意思疎通)が出来ず、従って指導も向上もない。
4.上を見上げ、目を開ける/下を向き、目を閉じる
おおよそ、日本のプレーヤーは、苦しい状況下では、下を向き、目を閉じ、海外の多くのプレーヤーは、上を見上げ、目を開ける。それは、文化や宗教の違いのためだろうか? 神仏を崇めて心の奥に宿し、目を閉じ、奥底に秘めた神仏と対話する日本と、目を上げて神に感謝し、また広く伝えるユダヤ、キリスト、イスラムとの違いなのか? このように考えると、海外では、宗教の授業は幼少の頃から有るようだが、日本では、道徳の時間まで削られる現状について考えざるを得ない。それは“こころ(フィロソフィー)”に関わる。
これは非合理的な精神主義を推奨するためではない。全身全霊で全力を尽くしてリミッター(限界)に突き当たり、たとえ倒れようとする時でも、前に倒れるのか、後ろに転げるのかという違いになる。
もちろん、下を向き、目を閉じつつ前に倒れる者もいるだろう。また、上を見上げつつ後ろに転げる者もいるだろう。文化や宗教の違いを踏まえた上で、限界を引き上げるためのギリギリの練習・鍛錬に務めること、またその指導が重要であろう。
その場合、精神力と体力の関係で、体力の限界を超えたにも関わらず精神力で前のめりに倒れて深刻なケガをすることもあろう。逆に、それを避けるために、力を抜き、後ろに引いてケガを避けることもあろう。その見極めは、極限状況において極めて微妙であり、心身の奥底の細部まで瞬時に察知して反応する実践・実戦感覚が求められる。また、それを錬磨するための指導も必要である。
5.良いニュース/悪いニュースの選好
自分自身より、周りを優先する教育がなされて来た日本では、自分の意志を伝える事がなかなかうまくいかない。しかも、家族構成で核家族が増え、また女性の社会進出の思い違いも加わり、人間形成の根源である家庭教育が弱まっている。そのため、人間性の捉え方が十分でなく、スポーツ界ではフィロソフィーより戦略・戦術が優先し、またパフォーマンスも技術・体力が優先し、それら全体をコントロールする人間性がないがしろにされている。
これまでの経験では、日本の多くのプレーヤーに「良いニュースと、悪いニュース、どっちから聞きたい?」と尋ねると、多くのプレーヤーは、「悪いニュースから」と答える。他方、海外のトレーナーに聞くと、「良いニュースだけ」と答えるプレーヤーが多いという。これは、先述してきた、一本目で全力疾走する、上を見上げるということと考え合わせる価値があると言える。
もちろん、日本では、クラブ活動のプレーヤーであり、明確にプロを目指していない学生が多く、海外、特にアメリカでは、プロ予備軍の大学生が多いという相違を考慮しなければならない。その上で、トレーナーとしての経験に照らして考えると、「どっちから?」と聞かれ、「○○だけ」と答えるのは、ひねくれ者か、或いは日頃から“こころ(フィロソフィー”のトレーニングが出来ているかの、どちらかではないかと言える。
ただし、日本でも、少ないながら「良いニュースから」と答えるプレーヤーがいる。そのような者は、チームには勝利を目指し続ける歴史があり、厳しい訓練で鍛えられ、また親の教育もゆきとどいていた基盤があるように思われる。
6.黒髪から茶髪に、そして黒髪に-その奥の日本的アイデンティティの再形成
トレーナーとして観察すると、日本のみならず海外で活躍するプレーヤーの多くは、フィロソフィー、人間性、自己主張、コミュニケーション・スキルの向上に努力し続ける能力が有るのではないかと感得している。そして、自分自身を信じ続けるために、多くの条件を自ら設定し、日頃から良く考え、そして決まれば疑わずにやり通す。今日なすべきことを終えると、自己否定し、更なる高見を目指す。それを通して、本来の日本人たるアイデンティティ、謂わば大和魂とも呼べるような姿が湧き出てくるように見える。
海外で活躍するプレーヤーの多くは、初めは髪を染め、日本人から離れようとし、英語でサインの練習をする。ところが、活躍でき、認められる頃になると、髪を黒に戻し、サインに漢字を一文字入れるなど、日本的なアイデンティティが沸々と湧き上がってくる。
日本を離れ、憧れを抱いて海外に出る時、国際的に認められる喜びと、心機一転で自分自身を飛躍的に変えたいという想いから、日本人としての意識が薄れる。そして現地の良い部分と、日本にいたときの悪い部分を比べてしまう。また、自身を特別な存在と位置づけてしまい、弱音を吐きにくい環境に置いてしまう。
このようになっても、プレーが上手く行き、コミュニケーションが取れていれば問題が現れないが、プレーが空回りし、コミュニケーションが上手く行かず、焦り、一人で考える時間が増えると潰れて行くことになる。このような段階が到来した時、現地のダメな部分、悪い・不便な所などが目に付き、日本と比べるようになった時点で、それを冷静に比較し、これを手がかりに自身を客観的に見つめるようになれると、問題に対応できる。
その頃には、インターナショナルな感覚が身につくとともに、日本の、日本人としての自覚が生まれれる。そして表面では、茶髪(金髪)から黒髪に戻すなどが現れる。この段階に進むと、プレーも上手く行き、本来の自分自身を取り戻し、アイデンティティの確立が新たに始まる。日本的アイデンティティの再形成である。
7.シリアスな状況で人間性が現れ、人間性がシリアスな状況を作り出す
―否定的なスパイラルの方向を転じるために―
たとえ実際にはそうでなくとも、そのように感じると、否定的な部分が表面に現れる。周りが、そうだと評価し、そのポジションを決めてしまう。そのイメージは、なかなか拭えないものである。この集団心理の否定的なスパイラルを止め、肯定的な方向に転じることが求められる。
具体的に喩えで言えば、6コ入りのガムを取り出した時、友達に「1コちょうだい!」と言われ、あげる。すると、隣の友達も「俺も!」と言うので、あげる。さらに、もう一人、二人と来て、六人目が「俺もちょうだい!」と言うが、もはや一個しか残っていないから、「イヤ、もう無いもん」と答える。すると、六人目が「みんなにあげてるのにズルイわ!ケチ!」と言い、それに引きずられて、周りの五人も同じように「ケチ!」と思う。
ところが、あげた方は、六個のうち五個もあげて、最後の一個しか残っていない。それを守って当然である。しかし、六人目にあげないことがイメージを決定づけ、「ケチ」だと位置づけてしまう。
もらう側は1個(1/6)で、大したありがたみはなく、また平等である。そして、六人目がゼロで、もらえた者とは一個の差とは言え、大きな違いである。この大きな違いが、大してありがたくない一個を引き寄せ、「ケチ」のイメージを創り出す。これでは、五個もあげた方としてはたまらない。
そもそも発端は友達同士の親しいやりとりだった。それが、このようにシリアスな結果になってしまうのである。そこには、シリアスな状況で人間性が出て、また人間性がシリアスな状況を作り出すという、悪い意味での相乗効果、そのスパイラル(悪循環)がある。そのため、優しい者が非難されるという衆愚的な状況が現れる。
これを防ぐには人間性を向上させることが求められる。そして、これはチームワークにとっても重要である。
さらに、シリアスはクリティカルでもある。このクライシスは日本語で「危機」と訳され、それは危険であるとともに機会(チャンス)でもある。これをしっかりと捉えれば、チャンスに活用できる。
先述の「ケチ」のイメージがみなを覆うとき、別の者が「ガムじゃないけれど、アメがあるから、どう」と差し出せば、雰囲気はガラリと変わるだろう。
ただし当然、その時、アメを出した者が大いに評価されて、それと逆比例して、「ケチ」と見なされた者が、さらに「ケチ」とされないことが肝要である。
ここでも、一人一人の人間性が問われる。チームワークは一人一人の人間性を錬磨し、また錬磨された人間性がチームワークを高めるというように、向上し合うことが求められる。
8.ケガ―シリアスでクリティカルな状況―
ケガをしたプレーヤー(Injury)は、瞬時に「イケる」かどうか確認し、次のように進む。
第一段階 ①問題なし
②問題あり
②の場合、第二段階に進む。
そして、Injuryの頭の中では「何でやねん?」が鳴り響き、それが表情に表れる。
その時「大丈夫か?」という声が、かすかに聞こえてくる。
Injuryは、思わず「えッ、ウン、大丈夫!」と答える。他のプレーヤーが次々に集まってきて、異口同音に「大丈夫か」と尋ねる。トレーナーが近づいて「大丈夫か?」、サイドラインに運ばれると、さらに周囲が口々に「大丈夫か?」と連発する。トレーナーや、ドクターが処置してる時にコーチが寄ってきて、「大丈夫か?」、試合に出ていないプレーヤーや、チームの役員までが「大丈夫か?」、更にハーフタイムで、戻って来たプレーヤーはまた「大丈夫か?」となり、最早、底(我慢の限界)を突く状態になる。
そんな時に、マネージャーが「大丈夫か?」と尋ねると、まさにリミッター(限界)を超えて「うるさいんじゃ!ほっといてくれ!」と答えてしまう。
みなは同じように「大丈夫?」のたった一言のみで過ぎ去るが、当人は、それが積み重なり、五十回、百回と繰り返され、最後に耐えきれず「うるさい!」と怒りを爆発させる。
ところが、それを聞く周りのプレーヤーたちは「心配して聞いてくれてるんやろう!その言い方はないやろ!」と言う。当人にとっては、何人もが責めることになり、そのため「もうイイ、誰も分かってくれない」と、心が折れ、黙り込む。
それに対して、「なんとか言えよ!」と、追い打ちを掛ける者もいる。また、トレーナーは仲裁するつもりで、「もうイイやん、やめとけよ」と言うが、Injuryの感情をコントロールしようという意識がないため、傷口に塩をすり込むようなことになる。
最早Injuryは意気消沈し、事態は冷淡に進行する。
「とりあえず、アイシング20分するから。」
「どうせ復帰できないんでしょ。無駄じゃないですか!」
「この試合は無理やけど、次の為に。」
「次って、手術じゃないんですか? おれ最終学年ですよ。次、ないじゃないですか?」
「……」
こうしてInjuryは、ただの厄介者に仕立てられてしまう。それは若いInjuryのせいというより、周りのアホな大人たちのためである。
9.否定~怒り~消沈~交渉~意識―Injuryの心理機制
①否定
Injuryは「大丈夫?」と聞かれると、大抵「大丈夫!」と答える。嘘をつくつもりなどく、条件反射的にそう答える。聞く方にも、当人にも悪いことを避けたい心理が働き、そう受けとめる。
②怒り
先述のアホな大人たちのために、リミッター(制御装置)が外れ、堪忍袋の緒が切れ、当たりやすい者(後輩・マネージャー・彼女・家族等々)に当たり散らす。さらに、当たってはいけない者にまで失礼な態度を取る。
③消沈
当たり散らしても問題が解決するわけでないため、次は自身を責めたり、分かってくれない周囲を責めたりしながら、落ち込む。
④交渉
それでも希望を見出そうと、分かってくれない大人に対して、復帰できないのに、あれこれ条件を突きつける。それは、アホな大人を試しているだけである。
⑤意識
これらのステージを歩み、意識のステージに到達できるか否かが鍵となる。ただし、環境(客観的な条件)が整っているか、よほど精神的に強くないと(主体的な力量)、ここまで上がれない。
これは現実を冷静に論理的に考え、最善・次善の対応ができる、或いはトレーナーに委ねられる、という段階である。
教育学部の学生の授業では、必ず「各ステージ毎に掛ける言葉を決めておくように」、そして「試合に出ないプレーヤー場合・絶対必要なプレーヤーの場合と分けて決めるように」、さらに「出来れば、その二つの中で、心が折れそうなプレーヤーと、タフなプレーヤーの二つに区分し、合計四パターン、それぞれのステージで決めておくべきである」と指導している。
これは固定的に各プレーヤーを決めつけるためではなく、シミュレーションのロール・プレイングに応用し、次第に精神的にタフになるプレーヤーを育てていく指標、キッカケとするためである。そして、この点も理解させるようにしている。
10.一流プレーヤーのケガ(クライシス)への対処
一流プレーヤーは、ケガを冷静に受け止め、意識のステージに行く。そのような者は痛みをコントロールし、冷静に、今すべき事を遂行する。例えば、次のようにする。
①交代する選手に情報を伝える。
②チームの士気を落とさないように配慮する。
③チーム関係者を試合の次のプレーに集中させる等々。
実際、過去の経験から、ケガをしてから数秒後には、意識のステージに上がっているプレーヤーが二名いた。
その一人は、高校(甲子園常連校)まで硬式野球を続け、かなり厳しい環境で鍛え抜かれ、大学からアメリカンフットボールに変わり、やはりかなりハードな環境に身を置き、Xリーグ(社会人)で、バリバリ活躍した。私は、その頃にチームのトレーナーとして出会った。
彼はシリアスなシーンでも、余裕をみせ、周りをホットさせるような、だからといって先頭を切って俺についてこいというタイプでもない、一種独特のリーダー的な存在であった。
その年は、30代を機に引退を考え、常に手を抜かない彼の本気度が伝わるシーズンであった。そして、試合形式の練習で、明らかに手術が必要な膝のケガをした。とっさに近づくと、彼は苦笑いしつつ、「やってもた! 痛いわぁ~!」と言った。その痛みは堪え難いと想像できた。
直ちにスパインボード(担架)で運びだし、チェックした。やはり、病院→手術が適応だろうと思い彼を見た。
「やっぱり手術?」
「まず、そうやな。」
「そぅかぁ~、しゃあないな。」
次々に来るコーチや、プレーヤーに笑顔で、「やってもた! 痛いわぁ~!」と語りかけていた。そしてアイシングし、ベンチに腰掛けると、他のInjuryにも冗談混じりに発破をかけた。しかも、笑顔で! 凄い男であった。
11.意識のステージに上がれないInjury、そうさせる周囲
Injuryが意識のステージに上がれないと、怒り~消沈~交渉を繰り返し、チームのガンになる。精神主義になってはいけないが、人間も、その集まりも気の持ちようで変わるのは確かである。そして、思い込むとひどくなる。
類似の例に想像妊娠があり、つわりの症状やお腹が出てくるようにもなる。また、脳梗塞から六カ月後、リハビリの進歩がなければ、ドクター、PT(理学療法士)は諦め、それを家族に告げ、家族も諦め、そうなると、本人は諦めるしかない。また、十人もの医師から、あなたは癌で余命三カ月だと言われると、痩せコケて行くのは当然である。
同様に、周りの大人たちが諦めたり、専門的な知見に裏づけられた考えや、トコトン真摯に向かう姿勢ではなく、その場の思いつきや気分で手を出したり・引いたりでは、若いプレーヤーは潰される。さらに、ダメな大人たちがプレーヤー同士の信頼関係、チームワークまで潰す。
関連した一例を挙げると、一流になる潜在力のある高校生が、日曜日に、他府県で試合をして、熱中症で倒れた。病院に運ばれ、救急担当の医師、教師、親はみな「大丈夫?」と聞いた。そこには“きっと大丈夫だよね”という期待、気持ちがあり、若者は、それを敏感に察知して答えたと考えられる。日曜日で面倒は避けたいという心理も伏在していたとも分析できる。そして、そのまま帰宅したが、容体が急変し、二日後に死亡した。
周囲の大人のうち、「大丈夫なんて言ってるが、お前は大丈夫じゃない」と言える者が一人でもいないとだめだと痛切に思わされる。
一流、そして一流を目指す選手は、謂わば限界状況で運動している。それは危険、しかも致命的な危険と背中合わせの状況であると認識しなければならない。ところが、まだ経験の浅い若者が、これを認識するのは難しい。周囲の大人が十分に注意しなければならない。
12.認知の位置関係―イソプ、メタ、パラ、オルトについて―
ベンゼン置換体の六角形を援用して、人が他者を認知することを多角的に考える。
イプソ(当人、主体)
/\ オルト
| |
\/メタ
パラ
「イプソ」は当人(自分自身)で、認知の主体である。その位置=立場から見て、隣接する「オルト」は同調者で、正対する「パラ」は対象者(他者)、そして、オルトとパラの中間で第三者的に客観視できるのが「メタ」だが、時に斜に構え、傍観することもある。
次に、これを発展させて、イプソでありつつオルト、メタ、パラでもあるという、複眼的重層的な認知について述べる。
イプソかつオルトの認知は、自分に同調する意見や、保証する過去の経験やデータに立脚し、自信を以て指導できるようになる。
イプソかつパラの認知は、プレーヤーの立場に身を寄せ、共感し、親身になって指導できる。
ただし、イプソ・オルトは自己中心的になりかねず、他方、イプソ・パラはその対極で、対象者に引きずられ、対象者としての自己中心的な状態に陥る危険性がある。それ故、中間でバランスのとれるメタの位置が重要となる。メタ認知が自己中心的(主観的)でもなく、対象者中心的(やはり主観的)でもない、客観的な認知を可能にする。そしてまた、メタ認知によって最善・次善の指示・指導となっているか否かを判断できる。
ただし、オルトやパラを全否定すべきではない。状況に応じて臨機応変にオルト、メタ、パラを行き来し、使い分けることが求められる。それはパスカルが「私は作品をつくりながら、それを判断することはできない」、「私は、画家のようにしなければならない。つまり、私は作品から離れなければならない。しかし、離れすぎてはならない」と述べていたことに通じる(『パンセ』断章114)。
修練によりこれに通暁しないと、オルトに感情を傾け、メタに対象の視点を置いてしまう。これでは不安定になり、周りの目に捕われ、意志に基づかない、感情に流されたイメージで行動し、その結果「優柔不断」等のレッテルを貼られる事になる。
「人にどう見られているか?」、「人から必要とされたい!」等の認知欲求が、自我(心理機制の中軸)を押し込めてしまう。
そして、家庭教育が損なわれている現在、多くの子供達は、このように育って来ているのではないか? 人に迷惑を掛けないという教育が、人の目を気にする様に変換され、不安を抱えながら生きて行くようになっている。しかも、あたかも自分自身で考え望んでいたかの様に思い込まされている。KY(空気、読めない)が流行語となる日本、空気を読むことに長けた日本人、意志を出さない日本人、それらは実は、意志が本当には解らないのかも知れない。
若いプレーヤーの心理機制を通して、このような事も考えさせられる。
13.コーチのポジション―現役時代との異同の日米比較―
コーチのポジションと現役時代のポジションを見比べると、日本では同じ場合が多い。活躍した有名な選手が、引退後、同じポジションの後進をコーチする。
他方、アメリカでは現役とコーチではポジションが異なる。
日本では自分のポジションを守った上で、突破し、離れて自分のポジションを高めるという「守破離」ができ、アメリカでは異なるポジションにより全体が見渡せると、一長一短がある。
管見ながら、スポーツ現場での指導者育成は環境が決定的な条件となっていると言える。日本では、多くの場合、結果・実績を持ったプレーヤーが指揮をとる。重点的なスポーツ・クラブは学校体育の延長で、実際に経験を有する体育の教員が指導する。保健体育を指導する者は、クラブ活動を見る事は当然だとする環境である。学校の体育とクラブ活動は厳密には違うものであるため、これでは、プロフェッショナルなコーチが生まれ難い環境と言うことができる。
他方、アメリカでは、現役の頃とは違うポジションで、アシスタント・コーチから勉強を始めるようにしている。また、キューバでは、少年野球やバレーなどの重点的なスポーツは、体育大学の出身者でなければ指導者になれないという。
先述したように、いずれにおいても一長一短があるが、その長所を学び、指導者の技術や人間性(人徳)を高めることが必要となる。
ここで人間性を取りあげるのは、「情報」のレベルと理解に関わるためである。英語のInformationは、誰にでも解る情報であり、ある程度の予備知識を必要とするのはNews、専門的な知識・能力が求められるのはIntelligence、それら全体のリテラシーの鍵になるのがIdentityとなる。
なお、その用法、扱い方として、即座に伝える情報、時期を見て伝える情報、伝えない情報がある。それらも、先述したイソプ、メタ、パラ、オルトを踏まえ、プレーヤーのコンディションに十分注意し、良い意味で戦略(Strategy)や戦術(Tactics)を立てて活用することが必要である。
これらを理解し、実践できるようにするためには、専門的で系統的な育成が求められる。現役とコーチのポジションを変えずに「守破離」の精神で育成する場合でも十分に考慮しなければならない。
14.発達段階に応じたスポーツの指導
アメリカにおけるスポーツの指導を観察すると、小・中学校では楽しさに、高校では基礎(ファンダメンタル)に、そして大学になって勝負に、それぞれ力点が置かれるように見える。それは発達段階に応じて、遊びから学習へ、そして、競争と優劣の現実的な評価へと、楽しさから厳しさへと進むための指導と言える。
人間は、子供に限らず、好きなことを楽しむ時に最も集中する。それは外部から集中を強制されるのではなく、内心から積極的に集中するからである(内発的動機づけ、快楽原則)。
ところが、これを指導が損なう場合がある。好きな事が嫌いになる方法は、好きな事をする時に、耐え難い苦痛を感じるようにする事である。能力を向上させるためには厳しさが必須だが、その程度が過ぎて、耐えられなくなると、潰れてしまう。その一歩前までなら、能力を最大限に発達させる優れた指導になるが、それは同時に、優秀なプレーヤーを潰しかねないcritical(危機的、臨界的)な行為でもある。限界に挑戦して超えようとするプレーヤーの意欲に応えつつ、過度にならないように注意しなければならない。
それ故、楽しさ、基礎、勝負という指導上の重点の変化は、crisis(危険かつ機会)をバネに発達するという発達論に適合している。具体的に述べると、まずゲーム(Game)などで、簡単にクリアできる所から楽しみ、次第に難易度が上がり、中々クリアできない段階になると、基本に立ち返り、また情報を集めるなど、様々に工夫しながら何度もチャレンジする。そこにおいて、“飽きる”か、“クリアする”かの分かれ目があり、その先でも、“諦める”か、“クリアする”かの分岐点があり、さらにその先でも……と続く。ゲームなら、暇があれば、さらには暇をひねり出しても、親に叱られても隠れて、やり続ける。何度失敗してもシツコクやり続ける。そのようにして、クリアを重ね、向上していく。クリアできば、達成感、満足感、充実感、自尊心が芽生え、それを認知し、また周囲に認知されることで自分自身の存在を確かめることができる。
これは、スポーツのみならず、勉強・学習・仕事にも通じると言える。
―アイデンティティと人間的強さの観点による日本と海外のプレーヤーの経験論的比較―
(生涯教育組織論特論共同研究)
今柳田剛生、山田正行
生涯教育組織論特論では、2013年度では防災に即して安全と社会教育実践に関する共同研究を行った。2014年度では、スポーツ指導の経験を踏まえ、選手が限界を突破しようとする危機(危険かつ機会)的な限界状況における安全の共同研究を進めた。
今柳田のトレーナーとしての豊富な経験に基づき、アクション・リサーチ的に、限界に挑戦し、突破しようとするスポーツ・プレーヤーの強さ、その指導に関して日本と海外(主に米国)の比較考察を行った。そして、プレーヤーは己と闘いつつ、他者と競いあい、戦いあうことから、考察を武士道へと進めた。これは戦/闘う者の安全という意味で、防衛と社会教育実践を考えるための参考となる。
特に現在、積極的平和主義に沿って人道支援や平和維持活動がさらに展開されようとしているが、当然、危険性も高まり、現場の隊員が限界状況に置かれる可能性も高まる。人道的介入まで遂行するようになれば尚更である。
その時に求められるのが、心身の基軸にある「人間的強さ(human strength)」である。そして、日本人としてこれが具体化する時、日本的アイデンティティが問われる。それぞれ普遍と個別、抽象と具体という関係性において、いずれも重要である。そして、日本的アイデンティティは日本の精神史を通して形成され、そこにおいて武士道は重要な位置を占めている。
極めて危険な任務に就く日本人にとって、武士道は身を守る武器や組織とともに心理的な強さを与えると考える。これは任務を終え、安全な日常生活に戻り、緊張が解けた時に蠢き出すようなトラウマに対しても有効である。「獅子身中の虫」という。内心の問題を軽視してはならない。安直に緊張を解くのではなく、リハビリのようにバランスをとって緊張を緩和するためにも、常に死を意識して生きる死生観の武士道は有意義である。
1.先手必勝-ナイフを両者の間に置き、刺された方が負けの決闘-
これはスポーツと国民性、民族的なアイデンティティを考えるための、あくまでも比喩、参考であるが、アメリカのスラム街の決闘について述べる。
そのやり方は、ナイフを両者の間に置き、刺された方が負けとなる。そして、スラム街の少年達は、直ぐにナイフを取ると答える方が多いと聞く。もちろん、ナイフを取ろうと手を伸ばすと、姿勢が低くなり、頭や背中を相手に見せ、隙ができる。そのため、相手の様子をうかがいながらナイフを取らねばならないが、何よりも先手必勝なのである。そして、たとえ隙を突かれて頭や背中を攻撃されても、頭突きで突破してナイフで刺すという捨て身の戦法もある。
次に、肩(三角筋の外側面)を一発ずつ殴り合い、「痛いっ!」と言った方が負けで、勝者には一万円という賭について言えば、やはりスラム街の少年達は「一発で気絶させれば、殴られることなく、お金を貰える」と考えるという。決闘のみならず、賭でも先手必勝である。
ところが、日本のプレーヤーに同じ質問をすると、これまでの経験では、九割以上が後攻を選ぶ。それは、相手の攻撃強度に乗じて、こちらの強度を変えられるからである。謂わば「後の先」である。
これを踏まえると、この国では、或いはこのような国民性では、先手必勝はないと読まれてしまうことになる。
2.50m10本Full Dush
50メートルをFull Dush(全力疾走)で10回という練習がある。日本人選手の場合、50mを走り切るつもりでも、ゴールが近づくと減速し、50mで止まる事が出来るような速度で走る。つまり、48mで既に減速を終え、いつでも止まることの出来る速度で50mを通過し、すぐに停止する。
50メートルをFull Dushとは言え、これを10本走り切るためには、7~8割のDushにしていながら、選手は100%で走っているつもりになる。
しかも、経験の浅い1年生などが、1本目からFullで走ると、先輩などから「そんな飛ばしたら、最後まで、走られへんぞ!」などと、怒号が飛ぶ。
これは、まさに「みんなでゴール」の現れである。それは、手抜きだが(足で走るが、あくまでも比喩として)、その手抜きも、みんなで抜けば、本人が抜いているのかさえ曖昧になり、分からなくなる。
漫才ブーム(1980~82年)の時期に流行した「赤信号みんなで渡れば怖くない」(ビートたけし)は、象徴的である。その十数後、1990年代に、学校では、競争を問題視する余り、悪平等に走り、運動会の徒競走で同時にゴールなどという指導まで現れた*1。これは教師が子供に競争させ、勝っても奢らず、負けても挫けないように指導することの回避であり、まさに手抜きである。そのため、子供は健全な闘志(闘争本能の発達形態)や克己心を錬成できない。これらは生きる力に結実する重要な心的強さだが、それが育たない。
教育者は、競争をさせないという悪平等に励むのではなく、子供が大人になり、社会で様々な困難に直面しても、乗り越えていく健全な闘志、克己心、生きる力の育成に努めるべきである。しかし、それがないがしろにされた。
このような状況では、スポーツの練習でも、社会の風潮に影響され、皆が暗黙に手を抜き、最後に帳尻を合わせる。確かに、それでも、国内では通用し、ある程度は勝てるが、しかし、国際競争では負ける。そして、負けても全員で泣くので変わらない(試合後に泣くことは後述)。
また悪平等は「甘え」や言い訳を誘発する。それに呼応して、偽善的な悪平等で弱くしながら、アリバイ的に支援を見せびらかす。
「一生懸命だと知恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いい加減だと言い訳が出る」というディスクールは、偽善的な「甘い」共感や支援より有意義である。
付記:
「赤信号みんなで渡れば怖くない」が流行した時期、ユーゴスラヴィア(当時)の大使館員で、友人のネナード・ブルギッチは、次のように語った。
「日本人はいつもみんなでワッショイ、ワッショイと神輿を担いでいるようだ。ユーゴ人は違う。野球で、ボールが来るまでジッとポジションに立っていることなどできない。しばらくすると観客とおしゃべりしたり、ビールを飲んだり、どこかに行って昼寝するだろう。ボールが来なくても、いつも動いているサッカーやバスケットボールでなければだめだ。」
ユーモアの中に鋭い観察眼が光っていた。そして実際、一九八三年から八四年にユーゴスラヴィアに留学すると、サッカーやバスケットボールが盛んであった。
なお、一九八四年、サラエボ・冬期オリンピックで国威を発揚した後、一九八九年にベルリンの壁が崩壊し、ユーゴでは危機が深まり、内戦が激化する中で、ブルギッチはドナウ川で水死体となって発見された。激動期における犠牲者の一人であり、まことに惜しまれる。
イヴォ・アンドリッチ(1961年ノーベル文学賞受賞)は「すべては橋です」と語ったという(セルボ・クロアチア語の学習のため田中一生訳注『ドリーナの橋』大学書林、一九八五年、p.xxiii)。教養ある外交官のブルギッチは「橋」になろうとしたが、落とされたと思った。
3.FullDashの一本目と二本目―日米比較
筋肉内のエネルギー源にATP(アデノシン3リン酸)がある。ATPは、ADP(アデノシン2リン酸)+ P(リン酸)に分かれるとき、最大の筋力を発揮する。
一度に、最大筋力で、ATPを使い切るまでの時間は、本来は数秒(second)、長くて10secと言われている。そして当然、ATPを使い切ると、再合成されなければ、再度最大筋力を発揮することはできない。この再合成に掛かる時間は、60~90secと言われている。
これを踏まえてFull Dashの日米比較を行う。
一本目のFull Dashの後、60~90sec休まなければ、トップスピード(最大筋力)は出せない。そして10本連続であれば、二本目で極端にスピードが上がらない事は、科学的に見れば、当然である。それ故、アメリカでは、二本目にスピードが上がるプレーヤーの評価は低い。
ところで、体力測定のルールは二本目を実施し、二本目の方の記録が良ければ、記録が落ちるまで、実施する。しかし、二本目の方が良いのは、アメリカでは一発目にMaxを出せないプレーヤーで、不名誉なこととされ、プレーヤーは二本目は考えない。他方、日本の多くのスポーツ現場での体力測定では、測定毎に記録が伸びるプレーヤーを賞賛する傾向がある。
そのため、日頃から、無意識に、練習ではリミッター(限界)を働かせ、“一夜漬け”のように試合の時にだけ、それを外そうとする。しかし、リミッターを外しても、それは未知の能力で、操作できる訳もない。また、日頃の意識で操作を行うと、リミッターの外と内の間でズレが生じ、いつもと違う動きになる。確かに、時には、良いパフォーマンスもできるが、概ねコントロール不能となり、ミスを犯す。
しかし、そのような実状を理解できず、“今のは、たまたまだ”と、問題を探究しないのが多い。そして次に、同じようなミスが起ると、意味なく“おかしいな”と頭を傾げ、“本来ならこんなミスはしないはず”と周りにアピールする。
しかし、焦って調整しようとしても、上手く行かないので更に焦る。さらに周りからは“プレッシャーに弱い。緊張に潰される”などと思われ、負のスパイラル(負の連鎖、悪循環)に巻き込まれ、もがけばもがくほど抜け出せなくなる。周囲から掛けられる声にも、焦りで対応できず、攻められているように受け止めてしまい、直ぐにキレ返す。このような負のスパイラルのためコミュニケーションが成立せず、周りは気を遣い話しかけなくなり、また本人は疎外感を感じ、自ら働きかけない。そのうち、誰も解ってくれないと「悟り」のような境地に至る。このようにして、謂わば「村八分」の状態が完成する。
たとえ気づいても、周りが動かないのでやり過ごし、結果が出てから、あの時に気づいていたけど、仕方ないと納得し、やり過ごす。このようにして、意見を出さない事・目立たない事が良しとされ、意見を求められても、周りの顔色を気にし、空気を読むように教育されていく。個人の意見を押し殺し、周りと同調し、決してアクションを起こさない。そのため、リテラシー(読み書き計算レベルの基本的な意思疎通)が出来ず、従って指導も向上もない。
4.上を見上げ、目を開ける/下を向き、目を閉じる
おおよそ、日本のプレーヤーは、苦しい状況下では、下を向き、目を閉じ、海外の多くのプレーヤーは、上を見上げ、目を開ける。それは、文化や宗教の違いのためだろうか? 神仏を崇めて心の奥に宿し、目を閉じ、奥底に秘めた神仏と対話する日本と、目を上げて神に感謝し、また広く伝えるユダヤ、キリスト、イスラムとの違いなのか? このように考えると、海外では、宗教の授業は幼少の頃から有るようだが、日本では、道徳の時間まで削られる現状について考えざるを得ない。それは“こころ(フィロソフィー)”に関わる。
これは非合理的な精神主義を推奨するためではない。全身全霊で全力を尽くしてリミッター(限界)に突き当たり、たとえ倒れようとする時でも、前に倒れるのか、後ろに転げるのかという違いになる。
もちろん、下を向き、目を閉じつつ前に倒れる者もいるだろう。また、上を見上げつつ後ろに転げる者もいるだろう。文化や宗教の違いを踏まえた上で、限界を引き上げるためのギリギリの練習・鍛錬に務めること、またその指導が重要であろう。
その場合、精神力と体力の関係で、体力の限界を超えたにも関わらず精神力で前のめりに倒れて深刻なケガをすることもあろう。逆に、それを避けるために、力を抜き、後ろに引いてケガを避けることもあろう。その見極めは、極限状況において極めて微妙であり、心身の奥底の細部まで瞬時に察知して反応する実践・実戦感覚が求められる。また、それを錬磨するための指導も必要である。
5.良いニュース/悪いニュースの選好
自分自身より、周りを優先する教育がなされて来た日本では、自分の意志を伝える事がなかなかうまくいかない。しかも、家族構成で核家族が増え、また女性の社会進出の思い違いも加わり、人間形成の根源である家庭教育が弱まっている。そのため、人間性の捉え方が十分でなく、スポーツ界ではフィロソフィーより戦略・戦術が優先し、またパフォーマンスも技術・体力が優先し、それら全体をコントロールする人間性がないがしろにされている。
これまでの経験では、日本の多くのプレーヤーに「良いニュースと、悪いニュース、どっちから聞きたい?」と尋ねると、多くのプレーヤーは、「悪いニュースから」と答える。他方、海外のトレーナーに聞くと、「良いニュースだけ」と答えるプレーヤーが多いという。これは、先述してきた、一本目で全力疾走する、上を見上げるということと考え合わせる価値があると言える。
もちろん、日本では、クラブ活動のプレーヤーであり、明確にプロを目指していない学生が多く、海外、特にアメリカでは、プロ予備軍の大学生が多いという相違を考慮しなければならない。その上で、トレーナーとしての経験に照らして考えると、「どっちから?」と聞かれ、「○○だけ」と答えるのは、ひねくれ者か、或いは日頃から“こころ(フィロソフィー”のトレーニングが出来ているかの、どちらかではないかと言える。
ただし、日本でも、少ないながら「良いニュースから」と答えるプレーヤーがいる。そのような者は、チームには勝利を目指し続ける歴史があり、厳しい訓練で鍛えられ、また親の教育もゆきとどいていた基盤があるように思われる。
6.黒髪から茶髪に、そして黒髪に-その奥の日本的アイデンティティの再形成
トレーナーとして観察すると、日本のみならず海外で活躍するプレーヤーの多くは、フィロソフィー、人間性、自己主張、コミュニケーション・スキルの向上に努力し続ける能力が有るのではないかと感得している。そして、自分自身を信じ続けるために、多くの条件を自ら設定し、日頃から良く考え、そして決まれば疑わずにやり通す。今日なすべきことを終えると、自己否定し、更なる高見を目指す。それを通して、本来の日本人たるアイデンティティ、謂わば大和魂とも呼べるような姿が湧き出てくるように見える。
海外で活躍するプレーヤーの多くは、初めは髪を染め、日本人から離れようとし、英語でサインの練習をする。ところが、活躍でき、認められる頃になると、髪を黒に戻し、サインに漢字を一文字入れるなど、日本的なアイデンティティが沸々と湧き上がってくる。
日本を離れ、憧れを抱いて海外に出る時、国際的に認められる喜びと、心機一転で自分自身を飛躍的に変えたいという想いから、日本人としての意識が薄れる。そして現地の良い部分と、日本にいたときの悪い部分を比べてしまう。また、自身を特別な存在と位置づけてしまい、弱音を吐きにくい環境に置いてしまう。
このようになっても、プレーが上手く行き、コミュニケーションが取れていれば問題が現れないが、プレーが空回りし、コミュニケーションが上手く行かず、焦り、一人で考える時間が増えると潰れて行くことになる。このような段階が到来した時、現地のダメな部分、悪い・不便な所などが目に付き、日本と比べるようになった時点で、それを冷静に比較し、これを手がかりに自身を客観的に見つめるようになれると、問題に対応できる。
その頃には、インターナショナルな感覚が身につくとともに、日本の、日本人としての自覚が生まれれる。そして表面では、茶髪(金髪)から黒髪に戻すなどが現れる。この段階に進むと、プレーも上手く行き、本来の自分自身を取り戻し、アイデンティティの確立が新たに始まる。日本的アイデンティティの再形成である。
7.シリアスな状況で人間性が現れ、人間性がシリアスな状況を作り出す
―否定的なスパイラルの方向を転じるために―
たとえ実際にはそうでなくとも、そのように感じると、否定的な部分が表面に現れる。周りが、そうだと評価し、そのポジションを決めてしまう。そのイメージは、なかなか拭えないものである。この集団心理の否定的なスパイラルを止め、肯定的な方向に転じることが求められる。
具体的に喩えで言えば、6コ入りのガムを取り出した時、友達に「1コちょうだい!」と言われ、あげる。すると、隣の友達も「俺も!」と言うので、あげる。さらに、もう一人、二人と来て、六人目が「俺もちょうだい!」と言うが、もはや一個しか残っていないから、「イヤ、もう無いもん」と答える。すると、六人目が「みんなにあげてるのにズルイわ!ケチ!」と言い、それに引きずられて、周りの五人も同じように「ケチ!」と思う。
ところが、あげた方は、六個のうち五個もあげて、最後の一個しか残っていない。それを守って当然である。しかし、六人目にあげないことがイメージを決定づけ、「ケチ」だと位置づけてしまう。
もらう側は1個(1/6)で、大したありがたみはなく、また平等である。そして、六人目がゼロで、もらえた者とは一個の差とは言え、大きな違いである。この大きな違いが、大してありがたくない一個を引き寄せ、「ケチ」のイメージを創り出す。これでは、五個もあげた方としてはたまらない。
そもそも発端は友達同士の親しいやりとりだった。それが、このようにシリアスな結果になってしまうのである。そこには、シリアスな状況で人間性が出て、また人間性がシリアスな状況を作り出すという、悪い意味での相乗効果、そのスパイラル(悪循環)がある。そのため、優しい者が非難されるという衆愚的な状況が現れる。
これを防ぐには人間性を向上させることが求められる。そして、これはチームワークにとっても重要である。
さらに、シリアスはクリティカルでもある。このクライシスは日本語で「危機」と訳され、それは危険であるとともに機会(チャンス)でもある。これをしっかりと捉えれば、チャンスに活用できる。
先述の「ケチ」のイメージがみなを覆うとき、別の者が「ガムじゃないけれど、アメがあるから、どう」と差し出せば、雰囲気はガラリと変わるだろう。
ただし当然、その時、アメを出した者が大いに評価されて、それと逆比例して、「ケチ」と見なされた者が、さらに「ケチ」とされないことが肝要である。
ここでも、一人一人の人間性が問われる。チームワークは一人一人の人間性を錬磨し、また錬磨された人間性がチームワークを高めるというように、向上し合うことが求められる。
8.ケガ―シリアスでクリティカルな状況―
ケガをしたプレーヤー(Injury)は、瞬時に「イケる」かどうか確認し、次のように進む。
第一段階 ①問題なし
②問題あり
②の場合、第二段階に進む。
そして、Injuryの頭の中では「何でやねん?」が鳴り響き、それが表情に表れる。
その時「大丈夫か?」という声が、かすかに聞こえてくる。
Injuryは、思わず「えッ、ウン、大丈夫!」と答える。他のプレーヤーが次々に集まってきて、異口同音に「大丈夫か」と尋ねる。トレーナーが近づいて「大丈夫か?」、サイドラインに運ばれると、さらに周囲が口々に「大丈夫か?」と連発する。トレーナーや、ドクターが処置してる時にコーチが寄ってきて、「大丈夫か?」、試合に出ていないプレーヤーや、チームの役員までが「大丈夫か?」、更にハーフタイムで、戻って来たプレーヤーはまた「大丈夫か?」となり、最早、底(我慢の限界)を突く状態になる。
そんな時に、マネージャーが「大丈夫か?」と尋ねると、まさにリミッター(限界)を超えて「うるさいんじゃ!ほっといてくれ!」と答えてしまう。
みなは同じように「大丈夫?」のたった一言のみで過ぎ去るが、当人は、それが積み重なり、五十回、百回と繰り返され、最後に耐えきれず「うるさい!」と怒りを爆発させる。
ところが、それを聞く周りのプレーヤーたちは「心配して聞いてくれてるんやろう!その言い方はないやろ!」と言う。当人にとっては、何人もが責めることになり、そのため「もうイイ、誰も分かってくれない」と、心が折れ、黙り込む。
それに対して、「なんとか言えよ!」と、追い打ちを掛ける者もいる。また、トレーナーは仲裁するつもりで、「もうイイやん、やめとけよ」と言うが、Injuryの感情をコントロールしようという意識がないため、傷口に塩をすり込むようなことになる。
最早Injuryは意気消沈し、事態は冷淡に進行する。
「とりあえず、アイシング20分するから。」
「どうせ復帰できないんでしょ。無駄じゃないですか!」
「この試合は無理やけど、次の為に。」
「次って、手術じゃないんですか? おれ最終学年ですよ。次、ないじゃないですか?」
「……」
こうしてInjuryは、ただの厄介者に仕立てられてしまう。それは若いInjuryのせいというより、周りのアホな大人たちのためである。
9.否定~怒り~消沈~交渉~意識―Injuryの心理機制
①否定
Injuryは「大丈夫?」と聞かれると、大抵「大丈夫!」と答える。嘘をつくつもりなどく、条件反射的にそう答える。聞く方にも、当人にも悪いことを避けたい心理が働き、そう受けとめる。
②怒り
先述のアホな大人たちのために、リミッター(制御装置)が外れ、堪忍袋の緒が切れ、当たりやすい者(後輩・マネージャー・彼女・家族等々)に当たり散らす。さらに、当たってはいけない者にまで失礼な態度を取る。
③消沈
当たり散らしても問題が解決するわけでないため、次は自身を責めたり、分かってくれない周囲を責めたりしながら、落ち込む。
④交渉
それでも希望を見出そうと、分かってくれない大人に対して、復帰できないのに、あれこれ条件を突きつける。それは、アホな大人を試しているだけである。
⑤意識
これらのステージを歩み、意識のステージに到達できるか否かが鍵となる。ただし、環境(客観的な条件)が整っているか、よほど精神的に強くないと(主体的な力量)、ここまで上がれない。
これは現実を冷静に論理的に考え、最善・次善の対応ができる、或いはトレーナーに委ねられる、という段階である。
教育学部の学生の授業では、必ず「各ステージ毎に掛ける言葉を決めておくように」、そして「試合に出ないプレーヤー場合・絶対必要なプレーヤーの場合と分けて決めるように」、さらに「出来れば、その二つの中で、心が折れそうなプレーヤーと、タフなプレーヤーの二つに区分し、合計四パターン、それぞれのステージで決めておくべきである」と指導している。
これは固定的に各プレーヤーを決めつけるためではなく、シミュレーションのロール・プレイングに応用し、次第に精神的にタフになるプレーヤーを育てていく指標、キッカケとするためである。そして、この点も理解させるようにしている。
10.一流プレーヤーのケガ(クライシス)への対処
一流プレーヤーは、ケガを冷静に受け止め、意識のステージに行く。そのような者は痛みをコントロールし、冷静に、今すべき事を遂行する。例えば、次のようにする。
①交代する選手に情報を伝える。
②チームの士気を落とさないように配慮する。
③チーム関係者を試合の次のプレーに集中させる等々。
実際、過去の経験から、ケガをしてから数秒後には、意識のステージに上がっているプレーヤーが二名いた。
その一人は、高校(甲子園常連校)まで硬式野球を続け、かなり厳しい環境で鍛え抜かれ、大学からアメリカンフットボールに変わり、やはりかなりハードな環境に身を置き、Xリーグ(社会人)で、バリバリ活躍した。私は、その頃にチームのトレーナーとして出会った。
彼はシリアスなシーンでも、余裕をみせ、周りをホットさせるような、だからといって先頭を切って俺についてこいというタイプでもない、一種独特のリーダー的な存在であった。
その年は、30代を機に引退を考え、常に手を抜かない彼の本気度が伝わるシーズンであった。そして、試合形式の練習で、明らかに手術が必要な膝のケガをした。とっさに近づくと、彼は苦笑いしつつ、「やってもた! 痛いわぁ~!」と言った。その痛みは堪え難いと想像できた。
直ちにスパインボード(担架)で運びだし、チェックした。やはり、病院→手術が適応だろうと思い彼を見た。
「やっぱり手術?」
「まず、そうやな。」
「そぅかぁ~、しゃあないな。」
次々に来るコーチや、プレーヤーに笑顔で、「やってもた! 痛いわぁ~!」と語りかけていた。そしてアイシングし、ベンチに腰掛けると、他のInjuryにも冗談混じりに発破をかけた。しかも、笑顔で! 凄い男であった。
11.意識のステージに上がれないInjury、そうさせる周囲
Injuryが意識のステージに上がれないと、怒り~消沈~交渉を繰り返し、チームのガンになる。精神主義になってはいけないが、人間も、その集まりも気の持ちようで変わるのは確かである。そして、思い込むとひどくなる。
類似の例に想像妊娠があり、つわりの症状やお腹が出てくるようにもなる。また、脳梗塞から六カ月後、リハビリの進歩がなければ、ドクター、PT(理学療法士)は諦め、それを家族に告げ、家族も諦め、そうなると、本人は諦めるしかない。また、十人もの医師から、あなたは癌で余命三カ月だと言われると、痩せコケて行くのは当然である。
同様に、周りの大人たちが諦めたり、専門的な知見に裏づけられた考えや、トコトン真摯に向かう姿勢ではなく、その場の思いつきや気分で手を出したり・引いたりでは、若いプレーヤーは潰される。さらに、ダメな大人たちがプレーヤー同士の信頼関係、チームワークまで潰す。
関連した一例を挙げると、一流になる潜在力のある高校生が、日曜日に、他府県で試合をして、熱中症で倒れた。病院に運ばれ、救急担当の医師、教師、親はみな「大丈夫?」と聞いた。そこには“きっと大丈夫だよね”という期待、気持ちがあり、若者は、それを敏感に察知して答えたと考えられる。日曜日で面倒は避けたいという心理も伏在していたとも分析できる。そして、そのまま帰宅したが、容体が急変し、二日後に死亡した。
周囲の大人のうち、「大丈夫なんて言ってるが、お前は大丈夫じゃない」と言える者が一人でもいないとだめだと痛切に思わされる。
一流、そして一流を目指す選手は、謂わば限界状況で運動している。それは危険、しかも致命的な危険と背中合わせの状況であると認識しなければならない。ところが、まだ経験の浅い若者が、これを認識するのは難しい。周囲の大人が十分に注意しなければならない。
12.認知の位置関係―イソプ、メタ、パラ、オルトについて―
ベンゼン置換体の六角形を援用して、人が他者を認知することを多角的に考える。
イプソ(当人、主体)
/\ オルト
| |
\/メタ
パラ
「イプソ」は当人(自分自身)で、認知の主体である。その位置=立場から見て、隣接する「オルト」は同調者で、正対する「パラ」は対象者(他者)、そして、オルトとパラの中間で第三者的に客観視できるのが「メタ」だが、時に斜に構え、傍観することもある。
次に、これを発展させて、イプソでありつつオルト、メタ、パラでもあるという、複眼的重層的な認知について述べる。
イプソかつオルトの認知は、自分に同調する意見や、保証する過去の経験やデータに立脚し、自信を以て指導できるようになる。
イプソかつパラの認知は、プレーヤーの立場に身を寄せ、共感し、親身になって指導できる。
ただし、イプソ・オルトは自己中心的になりかねず、他方、イプソ・パラはその対極で、対象者に引きずられ、対象者としての自己中心的な状態に陥る危険性がある。それ故、中間でバランスのとれるメタの位置が重要となる。メタ認知が自己中心的(主観的)でもなく、対象者中心的(やはり主観的)でもない、客観的な認知を可能にする。そしてまた、メタ認知によって最善・次善の指示・指導となっているか否かを判断できる。
ただし、オルトやパラを全否定すべきではない。状況に応じて臨機応変にオルト、メタ、パラを行き来し、使い分けることが求められる。それはパスカルが「私は作品をつくりながら、それを判断することはできない」、「私は、画家のようにしなければならない。つまり、私は作品から離れなければならない。しかし、離れすぎてはならない」と述べていたことに通じる(『パンセ』断章114)。
修練によりこれに通暁しないと、オルトに感情を傾け、メタに対象の視点を置いてしまう。これでは不安定になり、周りの目に捕われ、意志に基づかない、感情に流されたイメージで行動し、その結果「優柔不断」等のレッテルを貼られる事になる。
「人にどう見られているか?」、「人から必要とされたい!」等の認知欲求が、自我(心理機制の中軸)を押し込めてしまう。
そして、家庭教育が損なわれている現在、多くの子供達は、このように育って来ているのではないか? 人に迷惑を掛けないという教育が、人の目を気にする様に変換され、不安を抱えながら生きて行くようになっている。しかも、あたかも自分自身で考え望んでいたかの様に思い込まされている。KY(空気、読めない)が流行語となる日本、空気を読むことに長けた日本人、意志を出さない日本人、それらは実は、意志が本当には解らないのかも知れない。
若いプレーヤーの心理機制を通して、このような事も考えさせられる。
13.コーチのポジション―現役時代との異同の日米比較―
コーチのポジションと現役時代のポジションを見比べると、日本では同じ場合が多い。活躍した有名な選手が、引退後、同じポジションの後進をコーチする。
他方、アメリカでは現役とコーチではポジションが異なる。
日本では自分のポジションを守った上で、突破し、離れて自分のポジションを高めるという「守破離」ができ、アメリカでは異なるポジションにより全体が見渡せると、一長一短がある。
管見ながら、スポーツ現場での指導者育成は環境が決定的な条件となっていると言える。日本では、多くの場合、結果・実績を持ったプレーヤーが指揮をとる。重点的なスポーツ・クラブは学校体育の延長で、実際に経験を有する体育の教員が指導する。保健体育を指導する者は、クラブ活動を見る事は当然だとする環境である。学校の体育とクラブ活動は厳密には違うものであるため、これでは、プロフェッショナルなコーチが生まれ難い環境と言うことができる。
他方、アメリカでは、現役の頃とは違うポジションで、アシスタント・コーチから勉強を始めるようにしている。また、キューバでは、少年野球やバレーなどの重点的なスポーツは、体育大学の出身者でなければ指導者になれないという。
先述したように、いずれにおいても一長一短があるが、その長所を学び、指導者の技術や人間性(人徳)を高めることが必要となる。
ここで人間性を取りあげるのは、「情報」のレベルと理解に関わるためである。英語のInformationは、誰にでも解る情報であり、ある程度の予備知識を必要とするのはNews、専門的な知識・能力が求められるのはIntelligence、それら全体のリテラシーの鍵になるのがIdentityとなる。
なお、その用法、扱い方として、即座に伝える情報、時期を見て伝える情報、伝えない情報がある。それらも、先述したイソプ、メタ、パラ、オルトを踏まえ、プレーヤーのコンディションに十分注意し、良い意味で戦略(Strategy)や戦術(Tactics)を立てて活用することが必要である。
これらを理解し、実践できるようにするためには、専門的で系統的な育成が求められる。現役とコーチのポジションを変えずに「守破離」の精神で育成する場合でも十分に考慮しなければならない。
14.発達段階に応じたスポーツの指導
アメリカにおけるスポーツの指導を観察すると、小・中学校では楽しさに、高校では基礎(ファンダメンタル)に、そして大学になって勝負に、それぞれ力点が置かれるように見える。それは発達段階に応じて、遊びから学習へ、そして、競争と優劣の現実的な評価へと、楽しさから厳しさへと進むための指導と言える。
人間は、子供に限らず、好きなことを楽しむ時に最も集中する。それは外部から集中を強制されるのではなく、内心から積極的に集中するからである(内発的動機づけ、快楽原則)。
ところが、これを指導が損なう場合がある。好きな事が嫌いになる方法は、好きな事をする時に、耐え難い苦痛を感じるようにする事である。能力を向上させるためには厳しさが必須だが、その程度が過ぎて、耐えられなくなると、潰れてしまう。その一歩前までなら、能力を最大限に発達させる優れた指導になるが、それは同時に、優秀なプレーヤーを潰しかねないcritical(危機的、臨界的)な行為でもある。限界に挑戦して超えようとするプレーヤーの意欲に応えつつ、過度にならないように注意しなければならない。
それ故、楽しさ、基礎、勝負という指導上の重点の変化は、crisis(危険かつ機会)をバネに発達するという発達論に適合している。具体的に述べると、まずゲーム(Game)などで、簡単にクリアできる所から楽しみ、次第に難易度が上がり、中々クリアできない段階になると、基本に立ち返り、また情報を集めるなど、様々に工夫しながら何度もチャレンジする。そこにおいて、“飽きる”か、“クリアする”かの分かれ目があり、その先でも、“諦める”か、“クリアする”かの分岐点があり、さらにその先でも……と続く。ゲームなら、暇があれば、さらには暇をひねり出しても、親に叱られても隠れて、やり続ける。何度失敗してもシツコクやり続ける。そのようにして、クリアを重ね、向上していく。クリアできば、達成感、満足感、充実感、自尊心が芽生え、それを認知し、また周囲に認知されることで自分自身の存在を確かめることができる。
これは、スポーツのみならず、勉強・学習・仕事にも通じると言える。
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