対話1005 天皇共産主義 西洋帝国主義の覇道に対する東洋の王道、大アジア主義のパワーポリティクス
1.
天皇共産主義について、次のコメントをいただいた。
以下のサイト記事のような、日本の首脳部が赤化していたという意味でしょうか。
「天皇制共産国家」という詭弁で日本を共産化しつつあった陸軍中枢
http://blogs.yahoo.co.jp/umayado17/63564345.html
このサイトでは、以下の説明がある。
「モンゴルではソ連についで共産革命がおこった(1921年)。初めから過激だったわけではない。革命政権の初代指導者は王様であった。正確にいうと、現地のチベット仏教の指導者(ジェプツンダンバ・ホトクト8世)が国家指導者(ボグド・ハーン)に就任した。しかし、その指導者はすぐ亡くなってしまう(1924年)。
国家指導者の座を簒奪したのは、人民革命党である。その後、モンゴルでは共産的な社会改造が荒れ狂う。自国民を大量粛清、人口70万人のモンゴルで、反ソ・反革命・日本の手先との罪状で、
政府・地方要人、軍人を2万5000人
ラマ僧と仏教は独立の敵・日本の手先との罪状で、僧侶を 1万5000人
チンギス・ハーンの血統を引くとの理由で、皇族・貴族を 1500人
殺戮した。
全国にあったチベット仏教寺院(全部で900寺院)は、一つを除いてことごとく廃墟となり、国民の私有財産は消滅し、苗字を名乗ることは禁止された。」
この説明に付言すると、モンゴルはソ連共産党と中国共産党のパワー・ポリティクスにより、モンゴル人民共和国(1924~92年、その後モンゴル国)と内モンゴル自治区-中華思想的表記は外モンゴルと内モンゴル-に引き裂かれ、内モンゴルでは、中国共産党がモンゴル人民革命党まで粛清する程の粛清・破壊を行使された。
楊海英『墓標なき草原』正続・全3巻など参照。
2.
日本の場合、社会思想史的に見ると、権藤成卿『皇民自治本義』(富山房、一九二〇年)、北一輝「国家改造案原理大綱(一九一九年、上海で執筆、後に『日本改造法案大綱』として一九二三年に刊行)、同『支那革命外史』(大鐙閣、一九二一年、その後も版は多い)、橘孝三郎『日本愛国革新本義』(建設社、一九三二年五月初版、同年九月改訂版)がある。権藤の鍵概念には「社稷」があり、橘は「昔の王道」、「原始村落共産体」、「協同体完全国民社会」を提唱したように、原始共産制を民族主義や天皇主義へと展開している。それは昭和恐慌を乗り越えようと負債の据え置きや資金補助などの議会請願行動への実践に進み、五・一五事件に至った。
また、以下の弊ブログも参考に、
宮崎監督「風立ちぬ」を、かつてセツルメントで歌われた「だれが風を見たでしょう」等から考える 第8稿
http://85666808.at.webry.info/201405/article_15.html
中国革命や東亜協同体のロマンとデモーニッシュな暴力や謀略
http://85666808.at.webry.info/201308/article_3.html
マルクス主義、社会主義、共産主義は時代の主要な思潮であり、当然、君主、貴族、富裕層の良心的で啓蒙的な部分は影響された。ノブレス・オブリージュ(高貴な義務)もあった。これに先進の欧米に学ぶというコンプレクスも加重されていたと分析する。
3.
それに加えて、第二次大戦は、西洋の帝国主義=覇道に対する東洋の王道の大アジア主義があり、西洋資本主義のトップの米英に対する戦略では、ソ連、コミンテルン、そして中国共産党との関係が鍵になる。
いくつもの文献を分析すると、日本軍と中国共産党軍(八路軍や新四軍)はまとも戦っていないことが分かる(この点も弊ブログでいくつか言及している)。荒唐無稽な愚策と言うより、極めて現実的な戦略・作戦という側面もある。
なお、ソ連との関係が決定的に悪化したのは、1944年11月7日の革命記念日にゾルゲ(スパイと言うより在日本コミンテルン大使という存在と睨む)を処刑し、時差があるが、同日、スターリンは革命記念日の演説で日本を侵略国と見なすと表明した時と考える。その結果、翌年、8月8日深夜、宣戦布告し、9日未明、日ソ中立条約が有効でありながら、侵略・破壊・暴行・性暴力を行使した。
ただし、中国共産党が日本人に組織的に暴力を働いたことは、管見ながら、伝えられていない。これはソ連VS.中国共産党(政権奪取前)VS.大日本帝国というパワー・ポリティクスのためと見ている。この点も「天皇共産主義」の有効な結果と言える。
それはまた、戦後の天皇の戦争責任の不問(東京裁判で不起訴)にも繋がる。
おそらく、複雑怪奇な国際情勢において、良かったか、悪かったか、評価は分かれるだろうが、当時の指導層の優れた部分は、あらん限りの知恵を絞って対処したと考える。
以下も参考に。
西郷大将と東條大将の死について考える―武士道とソクラテスに通底する死生観から
http://85666808.at.webry.info/201310/article_6.html
天皇共産主義について、次のコメントをいただいた。
以下のサイト記事のような、日本の首脳部が赤化していたという意味でしょうか。
「天皇制共産国家」という詭弁で日本を共産化しつつあった陸軍中枢
http://blogs.yahoo.co.jp/umayado17/63564345.html
このサイトでは、以下の説明がある。
「モンゴルではソ連についで共産革命がおこった(1921年)。初めから過激だったわけではない。革命政権の初代指導者は王様であった。正確にいうと、現地のチベット仏教の指導者(ジェプツンダンバ・ホトクト8世)が国家指導者(ボグド・ハーン)に就任した。しかし、その指導者はすぐ亡くなってしまう(1924年)。
国家指導者の座を簒奪したのは、人民革命党である。その後、モンゴルでは共産的な社会改造が荒れ狂う。自国民を大量粛清、人口70万人のモンゴルで、反ソ・反革命・日本の手先との罪状で、
政府・地方要人、軍人を2万5000人
ラマ僧と仏教は独立の敵・日本の手先との罪状で、僧侶を 1万5000人
チンギス・ハーンの血統を引くとの理由で、皇族・貴族を 1500人
殺戮した。
全国にあったチベット仏教寺院(全部で900寺院)は、一つを除いてことごとく廃墟となり、国民の私有財産は消滅し、苗字を名乗ることは禁止された。」
この説明に付言すると、モンゴルはソ連共産党と中国共産党のパワー・ポリティクスにより、モンゴル人民共和国(1924~92年、その後モンゴル国)と内モンゴル自治区-中華思想的表記は外モンゴルと内モンゴル-に引き裂かれ、内モンゴルでは、中国共産党がモンゴル人民革命党まで粛清する程の粛清・破壊を行使された。
楊海英『墓標なき草原』正続・全3巻など参照。
2.
日本の場合、社会思想史的に見ると、権藤成卿『皇民自治本義』(富山房、一九二〇年)、北一輝「国家改造案原理大綱(一九一九年、上海で執筆、後に『日本改造法案大綱』として一九二三年に刊行)、同『支那革命外史』(大鐙閣、一九二一年、その後も版は多い)、橘孝三郎『日本愛国革新本義』(建設社、一九三二年五月初版、同年九月改訂版)がある。権藤の鍵概念には「社稷」があり、橘は「昔の王道」、「原始村落共産体」、「協同体完全国民社会」を提唱したように、原始共産制を民族主義や天皇主義へと展開している。それは昭和恐慌を乗り越えようと負債の据え置きや資金補助などの議会請願行動への実践に進み、五・一五事件に至った。
また、以下の弊ブログも参考に、
宮崎監督「風立ちぬ」を、かつてセツルメントで歌われた「だれが風を見たでしょう」等から考える 第8稿
http://85666808.at.webry.info/201405/article_15.html
中国革命や東亜協同体のロマンとデモーニッシュな暴力や謀略
http://85666808.at.webry.info/201308/article_3.html
マルクス主義、社会主義、共産主義は時代の主要な思潮であり、当然、君主、貴族、富裕層の良心的で啓蒙的な部分は影響された。ノブレス・オブリージュ(高貴な義務)もあった。これに先進の欧米に学ぶというコンプレクスも加重されていたと分析する。
3.
それに加えて、第二次大戦は、西洋の帝国主義=覇道に対する東洋の王道の大アジア主義があり、西洋資本主義のトップの米英に対する戦略では、ソ連、コミンテルン、そして中国共産党との関係が鍵になる。
いくつもの文献を分析すると、日本軍と中国共産党軍(八路軍や新四軍)はまとも戦っていないことが分かる(この点も弊ブログでいくつか言及している)。荒唐無稽な愚策と言うより、極めて現実的な戦略・作戦という側面もある。
なお、ソ連との関係が決定的に悪化したのは、1944年11月7日の革命記念日にゾルゲ(スパイと言うより在日本コミンテルン大使という存在と睨む)を処刑し、時差があるが、同日、スターリンは革命記念日の演説で日本を侵略国と見なすと表明した時と考える。その結果、翌年、8月8日深夜、宣戦布告し、9日未明、日ソ中立条約が有効でありながら、侵略・破壊・暴行・性暴力を行使した。
ただし、中国共産党が日本人に組織的に暴力を働いたことは、管見ながら、伝えられていない。これはソ連VS.中国共産党(政権奪取前)VS.大日本帝国というパワー・ポリティクスのためと見ている。この点も「天皇共産主義」の有効な結果と言える。
それはまた、戦後の天皇の戦争責任の不問(東京裁判で不起訴)にも繋がる。
おそらく、複雑怪奇な国際情勢において、良かったか、悪かったか、評価は分かれるだろうが、当時の指導層の優れた部分は、あらん限りの知恵を絞って対処したと考える。
以下も参考に。
西郷大将と東條大将の死について考える―武士道とソクラテスに通底する死生観から
http://85666808.at.webry.info/201310/article_6.html
この記事へのコメント