租界の「回収」をめぐり・3 「一億総懺悔」を坂口安吾「堕落論」と合わせ「尊厳への道」を探る
1.
昨日のブログで、中国の租界の「回収」に対して大英帝国が反対していたことを手がかりに、枢軸国対連合国、ファシズム対反ファシズムという構図には捉えきれない、帝国主義(覇道)に対するアジアの解放(王道)について述べた。
しかし、これは日本に帝国主義の動きもあったことを否認することではない。日本の帝国主義、軍国主義の問題を認識するが、これを以て西洋の帝国主義を看過してはならない。
西洋の帝国主義、その軍事力の行使も認識すべきである。
これに対しては、当時の歴史的段階では、日本も帝国主義、その軍事力を用いざるを得ない。帝国主義を批判するマルクス・レーニン主義も、国家の暴力装置に対して暴力革命を実行した。暴力に対して暴力を用いるという論理は相同である。
2.
帝国主義と帝国主義の総力戦であった第二次大戦が一定の終息を呈し、日本はポツダム宣言を受諾し、天皇が玉音放送で公表した。そして、皇族の東久邇宮稔彦王(陸軍大将)が首相となり「全国民総懺悔(一億総懺悔)」を提唱した。
これついて、私は当初は批判的であった。戦前から戦後の体制における継承において、戦争の責任を国民に転化し、指導層の責任を軽減していると考えたからである。
しかし、戦前・戦中において、体制を批判する組織は潰滅し、中国大陸における反戦兵士の運動を掌握していた野坂参三は体制のスパイであった(カジワタルについては検討中だが、そもそもスターリンや毛沢東が冷酷な独裁者であった)。
やはり国民全般が総力戦を支えていた。騙されていたとしても、その衆愚状況は問わねばならない。事後に責任の一切を指導層に押しつけるのは、当時に追随していたのと同レベルであり、責任を自覚して自分で考える態度ではない。
3.
「一億総懺悔」について再考するようになったのは、老大兄から坂口安吾の「堕落論」の意義を教えられたことが契機であった。
坂口は、「だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故(ゆえ)愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる……自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人間は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ」と述べ、これに続けて「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」と提起した(坂口安吾『堕落論・日本文化私観・他二十二篇』岩波文庫、2008年、pp.229-230)。
これは「一億総懺悔」の文学的な呼応であると気づかされた。
さらに、ドイツでカール・ヤスパースが「罪を引き受けることをこそ尊厳への道」であると提起したことにも対比できると捉えた(橋本文夫訳『責罪論』理想社、1965年、pp.175-176)。
ヤスパースのようではないが、「一億総懺悔」と「堕落」を組み合わせると、皇族から庶民まで、独特の、独創的な表現で、しっかりと反省し、「尊厳への道」へと踏み出そうとしていたことが分かる。これは、ドイツ人がややもするとヒトラーやナチに全ての責任を押しつけることよりも、真摯で誠実であると言える。
4.
「堕落論」に対して、その表題から、私は批判的であった。しかし、老大兄により、坂口独特の表現であり、その基底には鋭い慧眼があることを学んだ。
確かに、偽悪的で筆が滑っているところもあるが、「一寸の虫にも五分の魂」の気骨がうかがえ、それは二一世紀の現代でも大きな意義がある。
昨日のブログで、中国の租界の「回収」に対して大英帝国が反対していたことを手がかりに、枢軸国対連合国、ファシズム対反ファシズムという構図には捉えきれない、帝国主義(覇道)に対するアジアの解放(王道)について述べた。
しかし、これは日本に帝国主義の動きもあったことを否認することではない。日本の帝国主義、軍国主義の問題を認識するが、これを以て西洋の帝国主義を看過してはならない。
西洋の帝国主義、その軍事力の行使も認識すべきである。
これに対しては、当時の歴史的段階では、日本も帝国主義、その軍事力を用いざるを得ない。帝国主義を批判するマルクス・レーニン主義も、国家の暴力装置に対して暴力革命を実行した。暴力に対して暴力を用いるという論理は相同である。
2.
帝国主義と帝国主義の総力戦であった第二次大戦が一定の終息を呈し、日本はポツダム宣言を受諾し、天皇が玉音放送で公表した。そして、皇族の東久邇宮稔彦王(陸軍大将)が首相となり「全国民総懺悔(一億総懺悔)」を提唱した。
これついて、私は当初は批判的であった。戦前から戦後の体制における継承において、戦争の責任を国民に転化し、指導層の責任を軽減していると考えたからである。
しかし、戦前・戦中において、体制を批判する組織は潰滅し、中国大陸における反戦兵士の運動を掌握していた野坂参三は体制のスパイであった(カジワタルについては検討中だが、そもそもスターリンや毛沢東が冷酷な独裁者であった)。
やはり国民全般が総力戦を支えていた。騙されていたとしても、その衆愚状況は問わねばならない。事後に責任の一切を指導層に押しつけるのは、当時に追随していたのと同レベルであり、責任を自覚して自分で考える態度ではない。
3.
「一億総懺悔」について再考するようになったのは、老大兄から坂口安吾の「堕落論」の意義を教えられたことが契機であった。
坂口は、「だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故(ゆえ)愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる……自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人間は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ」と述べ、これに続けて「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」と提起した(坂口安吾『堕落論・日本文化私観・他二十二篇』岩波文庫、2008年、pp.229-230)。
これは「一億総懺悔」の文学的な呼応であると気づかされた。
さらに、ドイツでカール・ヤスパースが「罪を引き受けることをこそ尊厳への道」であると提起したことにも対比できると捉えた(橋本文夫訳『責罪論』理想社、1965年、pp.175-176)。
ヤスパースのようではないが、「一億総懺悔」と「堕落」を組み合わせると、皇族から庶民まで、独特の、独創的な表現で、しっかりと反省し、「尊厳への道」へと踏み出そうとしていたことが分かる。これは、ドイツ人がややもするとヒトラーやナチに全ての責任を押しつけることよりも、真摯で誠実であると言える。
4.
「堕落論」に対して、その表題から、私は批判的であった。しかし、老大兄により、坂口独特の表現であり、その基底には鋭い慧眼があることを学んだ。
確かに、偽悪的で筆が滑っているところもあるが、「一寸の虫にも五分の魂」の気骨がうかがえ、それは二一世紀の現代でも大きな意義がある。
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