対話の展開 2月16日のアドルノ『本来性という隠語』のノートの文章化:ご教示を
2月16日のブログ
たつ氏との対話に触発されて アドルノのハイデガー批判より
では、アドルノの文章を引用しただけであった。
これを以下のように文章化した。まだ草稿であり、ご教示を請う。
テオドール・アドルノは『本来性という隠語-ドイツ的なイデオロギーについて-(Jargon der Eigentlichkeit zur deutschen Ideologie)』で、次のように指摘する* 。
「ホルクハイマーが、〔ハイデガーに〕熱狂したある女性に与えた解答は、あの頃と同じく今日でも有効である。--<そうはおっしゃいますが、ハイデガーは少なくとも人間をようやく再び死の前に立たせてくれたのではないでしょうか>と彼女は言った。これに対して彼は答えたのであった。--<そんなことならば、ルーデンドルフの方がはるかに上手くやってのけましたよ。>」
ルーデンドルフは第一次大戦の将軍で、ヒンデンブルク参謀本部総長の下で参謀本部次長を務め、「ルーデンドルフ独裁」と呼ばれ、戦後はヒトラーと結託してミュンヘン一揆を起こした軍人である。
フッサールからハイデガー、現象から実存へと思考が深化しているように見えるが、その現象の内実は卑俗であることを、アドルノは剔抉している。
ここでアドルノに注目するのは、この点のみならず、彼らフランクフルト学派の特徴の一つにマルクスとフロイトの統合があり、それは本研究に関連するからである。フランクフルト学派は、マルクスは社会の抑圧に、フロイトは心理の抑圧にそれぞれ迫り、その統合的な研究により社会と人間の抑圧の解明と、それを通した解放を目指した。『本来性という隠語-ドイツ的なイデオロギーについて』では、フロイトに関して、「隠語」を話す者は「フロイトよりも近代的であると無根拠に決めつけることによって、フロイトを回避する」が、フロイトは「いぜんとして時代遅れのものになっていない」と述べている* 。
このような先行研究の評価、継承、発展は、フロイトからエリクソンへの心理歴史的研究の発展と類比的である。本研究は、後者の応用と展開に努めてきたのであり、それをより豊かにする上で、ここでアドルノを取りあげる。
前掲『本来性という隠語』において、アドルノはハイデガーが「本来性」を「実存論的存在論」の「哲学的述語」として「導入」したが、「ニーチェがもっと長生きであったならば」、この「本来性」という「隠語に吐き気を催していたことであろう」と指摘した* 。ニーチェが生きていればと仮定の論となっており、実証や文献や客観性を偏重する者は、根拠がないと言うだろうが、それは皮相で狭小なためである。ニーチェの思想を踏まえ、ハイデガーの文章を読めば、その結果として導き出される見解である。また「吐き気」という感覚に関して言えば、合理性と非合理性の問題にもなるが、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「思考は言語で偽装する」を踏まえれば* 、思考や言語の問題を鋭敏に察知し、表現する感覚の意義を認めるべきである。ブルデュの「実践感覚」も、これを補強する(これに関しては本研究で論じてきた)。
このようなわけで、アドルノは「本来性」を「隠語」と規定する。分かる者だけの間で通用し、そうでない者には意味深長なように思わせるという機能や作用があるからである。アドルノはヤスパースたちも「隠語の達人」と評する、ハイデガーは「慎重」なので、それ程「あけすけ」ではなく、「間接的にそのノルマを果たしている」という* 。この「ノルマ」とは「哲学者」という役割を果たすために、難解な用語を使いこなせるくらい賢いと見せるための「ノルマ」と言える。アドルノは、このような哲学的な用語を自家薬籠中の物の如く、縦横に生き生きとハイデガーはじめ「隠語」で結束する者たちを批判している。その中でもハイデガーは「隠語のぶざまさに用心している」程度には賢いため* 、アドルノの批判は彼に集中する(他はぶざまさを自覚できない程ぶざまである)。
そして、アドルノはニーチェの「いやな臭いがする」も引く* 。「隠語」特有の胡散臭さのためであるが、それを共用する者が属する学術界の欺瞞、そこにおける文化資本と権力の結びつき、その頂点に君臨しよう励むハイデガーの「臭い」もある。「権力は腐敗し、絶対権力は絶対に腐敗する(Power tends to corrupt and absolute power corrupts absolutely)」というアクトン卿の警句を踏まえれば* 、権力に付きまとう腐臭と言える。それ故、アドルノは「隠語は、社会参加を、確固たる制度へと飼い馴らす。隠語は、おまけに、三流の話者の自信を強めたりもする」、そして「隠語と共鳴し合う訓戒」を教え込むと指摘する* 。意味不明でありながら意味深長に思わせる欺瞞が、それに釣られる者たちを捕まえ、飼い馴らすという支配者の道具となっている。また同時に、それに釣られる者は「三流の話者」であり、そのような者の「自信」は、学問ではなく権力・権威に拠っていると痛烈に批判する。このような「三流」が崇め奉るのがハイデガーとなる。
さらにアドルノは批判をブーバーの<我-汝>関係へと進め、次のように論じる* 。
「隠語を背後で取りしきっているテーゼ--<我-汝>関係が真理の場であるというテーゼ--は、真理の客観性を物的なものだとして悪者に仕立てあげ、ひそかに非合理主義をむし返す。(略)遂には、愚鈍が形而上学の創唱者となる。マルティン・ブーバーは、実存的なものについてのキルケゴールの概念を、そのキリスト論から切り離し、たんなる心構えに改造した。(略)〔隠語を話す者よりも〕よりつつましやかな《本来的な人々》〔<我-汝>関係を強調する人々〕は、死を前にして、厳かにまなざしを天上に向ける。だが、彼らの精神的動作は、--生命あるものに夢中になっていて--死を隠蔽する。」
いかにも神学的な装いを凝らすが、内実は「生命あるものに夢中になってい」るという点は、「本来」的な装いを凝らすが、内実は「社会参加を、確固たる制度へと飼い馴らす」という点で共に世俗的である。
ここで『我と汝・対話』について見ると、その冒頭でブーバーは「我-汝」と「我-それ」という「対偶語」を二つの「根源語」と規定し、それ故「世界は人間にとっては、二重の態度に応じて二重である」と述べる* 。そして人間関係において最も生き生きとする愛について、「愛とは、ひとつの汝にたいするひとつの我の責任である」という* 。ニーチェの「愛とは――その手段においては戦いであり、その根底においては両性間の命がけの憎悪である」* と比べれば、「飼い馴ら」されて生気を失っていると言える。
またブーバーは「無言の一如(Einheit)」への「沈潜」を説きつつ、「あらゆる芸術」は「本質的に対話的」であり、またルートヴィヒ・フォイエルバッハを引いて「真の弁証法」は「孤独」な「独白」ではなく、「対話」であると述べるが* 、その文体は独白(モノローグ)であり、対話(ダイアローグ)や弁証法(ディアレクティク)のダイナミズムは弱い。「無言」と「対話」の止揚の前に矛盾があるが、その考察が浅い。
同様にハイデガーも薄弱で浅薄だが、しかし、ヒトラーを独裁者に祭りあげた衆愚社会において押し上げられる。この点をアドルノは「根源的体験」や「基礎的存在論」という表現により「市場的自由主義の没落」に伴い「赤裸々に立ち現れ」た「支配〔-被支配〕の諸関係」から出される「命令」が「苦もなく《根源的なもの》に取り違えられ」、「《血と大地(Blut unt Boden)》の大言壮語が、極度に集中化しつつあった第三帝国の産業資本主義の状況下で、何の爆笑も引き起こさず可能となったのである」と分析する* 。そもそも「文化という内在(イマネンツ)から出発して、文化を突き抜けなければ」、「根源的」な次元になど迫れないが、「《基礎的存在論》は、自己が〔文化の〕外部の始原であるかのようなふりをすることによって、それを故意に省略してしまうのである」* 。「根源」、「基礎」、そして「本来性」というが、それは言葉だけで、内容は薄く、従って論理的な説得力は弱い。時流に乗る彼を引き立てる権力・権威がなければ、一個人の考える主観的な言説にしかすぎないが、しかし「甲冑に身を固めた彼(ハイデガー-引用者)は、己れの弱点を十分すぎるほど意識していたがゆえに、主観性をはっきりと言葉にして語るよりも、むしろ横暴きわまりない挙に出る方を選んだ」と、アドルノは指摘する* 。居直りの虚喝、こけおどしであり、「御者の笑い話」に喩えればいい程度のというレベルである* 。即ち「或る物において何が《本来的》なのかという比較的罪のない問いから発した《本来性》のカテゴリーは、まずは記述的に導入された後、神話的に布告された《宿命(Schicksal》に転化する」という論法は、大げさな表現に惑わされなければ「或る御者が情容赦なく自分の馬を殴りつけるため、人にわけを尋ねられる。すると彼は、この馬は、馬たることをいったん身に引き受けた以上は、駆けなければだめなのだ、と答える」と相同であることが分かる。
また『存在と時間』第五十節から「けれども、世界内存在としての現存在に切迫しうるものには、多くのものがある」を引用し、この「ような文が、活字が赤面するでもなく、含まれている」として、「かつて偽ってフランクフルト在地の警句家の作と言いふらされていた格言」たる「窓から外を見れば、多くのものに気づくものである」と対比させ、「ハイデガーは、《死へとかかわる存在(Sein zum Tode)》としての《本来性》そのものについての彼の構想をこの水準に移し置く」と述べる* 。実際「多くのものがある」ばど、誰でも言える。重要なのは、その「多くのもの」を分析し、重要な知見を導き出すことであるが、「世界内存在」や「現存在」を繰り返すだけで同義語や類語の反復(トートロジー)を書き連ねているだけである。そして同じことをいうだけであるから、その基調はモノローグである。
その上で、アドルノは「本来性」など大袈裟な用語の内実を剔抉する。先述した彼に「熱狂したある女性」が言った人間を「死の前に立たせ」たことである。ただし、それは彼女の言う意味ではなく、死を正視・自覚して如何に生きるかという積極的主体的な意味ではなく、それに従わせるという、消極的という以上に、非人間的で暴力的な意味である。フロイトならばタナトスを見出すであろう。まさにナチに同調した所以である。それは偶然ではなく、彼の実存の現象形態であった。この点を、アドルノは「暴力は、ハイデガー哲学の言語形態のみならず、その核心にも宿っている」と指摘し、「自己保存の原理」に「隷属する者たちを脅迫する最後の手段」として「死」はあるが、この「死」を「自己保存原理それ自体の本質に転化する」とハイデガーは考えたと述べ、それを「死の弁神論」と規定する* 。「自己保存」にあくせくする者を、意味深長な言葉巧みに、その否定である死へと導くのである。
それはヘーゲルと似て非なるかたちで暴力と死を扱う論法であるとして、「絶対的な自己性への批判の起動力になるというよりも、不可避のもの--そしてそれ故に〔絶対に服従すべき〕律法に転化する」と批判し、、「暴力が死と錯綜して結びあうのは、なにも外面的にだけではない。自分自身も含め、いっさいのものはどうせ滅びるだけの価値しかないという思い、そしてその一方で、冗談じゃないと言い捨てて、自己の狭小な利害の追求にいそしむ--この両者はつねに似合いのものとして結び合ってきたのである」と述べる* 。
ヘーゲルは『精神現象学』で、次のように論じている* 。
「他方の行為と自己自身による行為という二重の行為である。行為が他方の行為である限り、各人は他方の死を目指している。だがそこにまた、自己自身による行為という第二の行為もある。というのも他人の死を目指すことは、自己の生命を賭けることを含んでいるからである。そこで、二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦によって、自分自身と互いとの真を確かめるというふうに規定されている。つまり、両方は戦におもむかねばならない。なぜならば、共に、自分だけであるという自己自身の確信を、他者においてまた自分達自身において真理に高めねばならないからである。そこで自由を保証してもらうためには、生命を賭けなければならない。……敢えて生命を賭けなかった個人は人格とは認められようけれども、自立的な自己意識として承認されているという真理に達してはいない」。
そしてこれを、ヘーゲルは「主」と「僕」の弁証法、さらに相互承認へと展開する* 。トマス・ホッブズが『リヴァイアサン』で提示した「万人の万人による闘争」を想起させる議論が自由、自立、相互承認へとダイナミックに止揚されており、確かにマルクスやエンゲルスが輩出する思想性がある。
ところが、ハイデガーは現象学を展開すると見せて、時代の主流どころか全体主義の支配的イデオロギーたるナチズムに呼応・共振し、て成り上がり、その危険性を察知すると慎重かつ巧妙に距離を置いて詩を論じ、戦後、アウシュヴィッツはじめナチの残虐な戦争犯罪が明らかになり、アドルノが「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」と提起しても* 、素知らぬ風に民族主義的な宿命論にニヒリズムやシニシズム(どうせ滅びるだけ等々)を加味した詩論を中心にモノローグを量産して「自己の狭小な利害の追求にいそし」み、百巻以上の全集の編集を指示して天寿を全うした。
相互承認から相互主観/主体性、その生世界を考究する現象学から実存主義への展開はカール・ヤスパースによってなされたが、しかし、難しそうな言いまわしはハイデガーの方が上手で、人より賢いと見せたい者はハイデガーに向かう。
また、戦後すぐ戦争責任を提起したヤスパースより* 、反省しないハイデガーの方を体制は重宝し、史実の正視を回避して国家や民族に依存する大衆には心地よい。かくしてハイデガーの説く「弁神論」や「律法」が権力や権威を背景に下達されるが、内容は大層な文句と裏腹で乏しく、実りある対話(ダイアローグ)、弁証法(ディアレクティク)的な止揚や発展は望めない。
<注>
* テオドール・アドルノ/笠原賢介訳『本来性という隠語-ドイツ的なイデオロギーについて-』未來社、1992年、p.164。ハイデガーに「熱狂したある女性」について、「熱狂」の後は複雑な関係性になる。ハナ・アレント「ハイデガー狐」参照(インターネットでは中山元訳があり、その後、活字ではアーレント/J.コーン編/齋藤純一、山田正行、矢野久美子共訳『アーレント政治思想集成・2-理解と政治-』みすず書房、2002年)。
* 前掲『本来性という隠語』p.84。
* 同前p.9、pp.15-16。
* 野矢茂樹訳『論理哲学論考』岩波文庫、2003年、p.39。
* 同前、p.31。
* 同前、p.63。
* 同前、p.16。
* John Emerich Edward Dalberg-Acton, Selected, and with an introduction by Gertrude Himmelfarb, Essays on Freedom and Power, The Beacon Press, 1949, p.364.
* 前掲『本来性という隠語』p.19。
* 同前、p.23。
* マルティン・ブーバー/田口義弘訳『我と汝・対話』みすず書房、1978年、p.5。
* 同前、p.23。
* ニーチェ『この人を見よ』の「なぜ私はかくも良い本を書くのか」五節。西尾幹二訳(新潮文庫版、1990年)ではp.87。
* 前掲『我と汝・対話』p.230、p.233、p.236。
* 前掲『本来性という隠語』pp.117-119。
* 同前、p.118。
* 同前、pp.150-151。
* 同前、pp.151-152。
* 同前、p.153。
* 同前、p.159。
* 同前、pp.159-160。
* 樫山欽四郎訳『精神現象学』河出書房新社、1973年、p.118、傍点原文。
* 同前、pp.119ff。
* アドルノ/木田元他訳『否定弁証法』作品社、1996年、p.438。
* ヤスパース/橋本文夫訳『責罪論』理想社、1965年。
たつ氏との対話に触発されて アドルノのハイデガー批判より
では、アドルノの文章を引用しただけであった。
これを以下のように文章化した。まだ草稿であり、ご教示を請う。
テオドール・アドルノは『本来性という隠語-ドイツ的なイデオロギーについて-(Jargon der Eigentlichkeit zur deutschen Ideologie)』で、次のように指摘する* 。
「ホルクハイマーが、〔ハイデガーに〕熱狂したある女性に与えた解答は、あの頃と同じく今日でも有効である。--<そうはおっしゃいますが、ハイデガーは少なくとも人間をようやく再び死の前に立たせてくれたのではないでしょうか>と彼女は言った。これに対して彼は答えたのであった。--<そんなことならば、ルーデンドルフの方がはるかに上手くやってのけましたよ。>」
ルーデンドルフは第一次大戦の将軍で、ヒンデンブルク参謀本部総長の下で参謀本部次長を務め、「ルーデンドルフ独裁」と呼ばれ、戦後はヒトラーと結託してミュンヘン一揆を起こした軍人である。
フッサールからハイデガー、現象から実存へと思考が深化しているように見えるが、その現象の内実は卑俗であることを、アドルノは剔抉している。
ここでアドルノに注目するのは、この点のみならず、彼らフランクフルト学派の特徴の一つにマルクスとフロイトの統合があり、それは本研究に関連するからである。フランクフルト学派は、マルクスは社会の抑圧に、フロイトは心理の抑圧にそれぞれ迫り、その統合的な研究により社会と人間の抑圧の解明と、それを通した解放を目指した。『本来性という隠語-ドイツ的なイデオロギーについて』では、フロイトに関して、「隠語」を話す者は「フロイトよりも近代的であると無根拠に決めつけることによって、フロイトを回避する」が、フロイトは「いぜんとして時代遅れのものになっていない」と述べている* 。
このような先行研究の評価、継承、発展は、フロイトからエリクソンへの心理歴史的研究の発展と類比的である。本研究は、後者の応用と展開に努めてきたのであり、それをより豊かにする上で、ここでアドルノを取りあげる。
前掲『本来性という隠語』において、アドルノはハイデガーが「本来性」を「実存論的存在論」の「哲学的述語」として「導入」したが、「ニーチェがもっと長生きであったならば」、この「本来性」という「隠語に吐き気を催していたことであろう」と指摘した* 。ニーチェが生きていればと仮定の論となっており、実証や文献や客観性を偏重する者は、根拠がないと言うだろうが、それは皮相で狭小なためである。ニーチェの思想を踏まえ、ハイデガーの文章を読めば、その結果として導き出される見解である。また「吐き気」という感覚に関して言えば、合理性と非合理性の問題にもなるが、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「思考は言語で偽装する」を踏まえれば* 、思考や言語の問題を鋭敏に察知し、表現する感覚の意義を認めるべきである。ブルデュの「実践感覚」も、これを補強する(これに関しては本研究で論じてきた)。
このようなわけで、アドルノは「本来性」を「隠語」と規定する。分かる者だけの間で通用し、そうでない者には意味深長なように思わせるという機能や作用があるからである。アドルノはヤスパースたちも「隠語の達人」と評する、ハイデガーは「慎重」なので、それ程「あけすけ」ではなく、「間接的にそのノルマを果たしている」という* 。この「ノルマ」とは「哲学者」という役割を果たすために、難解な用語を使いこなせるくらい賢いと見せるための「ノルマ」と言える。アドルノは、このような哲学的な用語を自家薬籠中の物の如く、縦横に生き生きとハイデガーはじめ「隠語」で結束する者たちを批判している。その中でもハイデガーは「隠語のぶざまさに用心している」程度には賢いため* 、アドルノの批判は彼に集中する(他はぶざまさを自覚できない程ぶざまである)。
そして、アドルノはニーチェの「いやな臭いがする」も引く* 。「隠語」特有の胡散臭さのためであるが、それを共用する者が属する学術界の欺瞞、そこにおける文化資本と権力の結びつき、その頂点に君臨しよう励むハイデガーの「臭い」もある。「権力は腐敗し、絶対権力は絶対に腐敗する(Power tends to corrupt and absolute power corrupts absolutely)」というアクトン卿の警句を踏まえれば* 、権力に付きまとう腐臭と言える。それ故、アドルノは「隠語は、社会参加を、確固たる制度へと飼い馴らす。隠語は、おまけに、三流の話者の自信を強めたりもする」、そして「隠語と共鳴し合う訓戒」を教え込むと指摘する* 。意味不明でありながら意味深長に思わせる欺瞞が、それに釣られる者たちを捕まえ、飼い馴らすという支配者の道具となっている。また同時に、それに釣られる者は「三流の話者」であり、そのような者の「自信」は、学問ではなく権力・権威に拠っていると痛烈に批判する。このような「三流」が崇め奉るのがハイデガーとなる。
さらにアドルノは批判をブーバーの<我-汝>関係へと進め、次のように論じる* 。
「隠語を背後で取りしきっているテーゼ--<我-汝>関係が真理の場であるというテーゼ--は、真理の客観性を物的なものだとして悪者に仕立てあげ、ひそかに非合理主義をむし返す。(略)遂には、愚鈍が形而上学の創唱者となる。マルティン・ブーバーは、実存的なものについてのキルケゴールの概念を、そのキリスト論から切り離し、たんなる心構えに改造した。(略)〔隠語を話す者よりも〕よりつつましやかな《本来的な人々》〔<我-汝>関係を強調する人々〕は、死を前にして、厳かにまなざしを天上に向ける。だが、彼らの精神的動作は、--生命あるものに夢中になっていて--死を隠蔽する。」
いかにも神学的な装いを凝らすが、内実は「生命あるものに夢中になってい」るという点は、「本来」的な装いを凝らすが、内実は「社会参加を、確固たる制度へと飼い馴らす」という点で共に世俗的である。
ここで『我と汝・対話』について見ると、その冒頭でブーバーは「我-汝」と「我-それ」という「対偶語」を二つの「根源語」と規定し、それ故「世界は人間にとっては、二重の態度に応じて二重である」と述べる* 。そして人間関係において最も生き生きとする愛について、「愛とは、ひとつの汝にたいするひとつの我の責任である」という* 。ニーチェの「愛とは――その手段においては戦いであり、その根底においては両性間の命がけの憎悪である」* と比べれば、「飼い馴ら」されて生気を失っていると言える。
またブーバーは「無言の一如(Einheit)」への「沈潜」を説きつつ、「あらゆる芸術」は「本質的に対話的」であり、またルートヴィヒ・フォイエルバッハを引いて「真の弁証法」は「孤独」な「独白」ではなく、「対話」であると述べるが* 、その文体は独白(モノローグ)であり、対話(ダイアローグ)や弁証法(ディアレクティク)のダイナミズムは弱い。「無言」と「対話」の止揚の前に矛盾があるが、その考察が浅い。
同様にハイデガーも薄弱で浅薄だが、しかし、ヒトラーを独裁者に祭りあげた衆愚社会において押し上げられる。この点をアドルノは「根源的体験」や「基礎的存在論」という表現により「市場的自由主義の没落」に伴い「赤裸々に立ち現れ」た「支配〔-被支配〕の諸関係」から出される「命令」が「苦もなく《根源的なもの》に取り違えられ」、「《血と大地(Blut unt Boden)》の大言壮語が、極度に集中化しつつあった第三帝国の産業資本主義の状況下で、何の爆笑も引き起こさず可能となったのである」と分析する* 。そもそも「文化という内在(イマネンツ)から出発して、文化を突き抜けなければ」、「根源的」な次元になど迫れないが、「《基礎的存在論》は、自己が〔文化の〕外部の始原であるかのようなふりをすることによって、それを故意に省略してしまうのである」* 。「根源」、「基礎」、そして「本来性」というが、それは言葉だけで、内容は薄く、従って論理的な説得力は弱い。時流に乗る彼を引き立てる権力・権威がなければ、一個人の考える主観的な言説にしかすぎないが、しかし「甲冑に身を固めた彼(ハイデガー-引用者)は、己れの弱点を十分すぎるほど意識していたがゆえに、主観性をはっきりと言葉にして語るよりも、むしろ横暴きわまりない挙に出る方を選んだ」と、アドルノは指摘する* 。居直りの虚喝、こけおどしであり、「御者の笑い話」に喩えればいい程度のというレベルである* 。即ち「或る物において何が《本来的》なのかという比較的罪のない問いから発した《本来性》のカテゴリーは、まずは記述的に導入された後、神話的に布告された《宿命(Schicksal》に転化する」という論法は、大げさな表現に惑わされなければ「或る御者が情容赦なく自分の馬を殴りつけるため、人にわけを尋ねられる。すると彼は、この馬は、馬たることをいったん身に引き受けた以上は、駆けなければだめなのだ、と答える」と相同であることが分かる。
また『存在と時間』第五十節から「けれども、世界内存在としての現存在に切迫しうるものには、多くのものがある」を引用し、この「ような文が、活字が赤面するでもなく、含まれている」として、「かつて偽ってフランクフルト在地の警句家の作と言いふらされていた格言」たる「窓から外を見れば、多くのものに気づくものである」と対比させ、「ハイデガーは、《死へとかかわる存在(Sein zum Tode)》としての《本来性》そのものについての彼の構想をこの水準に移し置く」と述べる* 。実際「多くのものがある」ばど、誰でも言える。重要なのは、その「多くのもの」を分析し、重要な知見を導き出すことであるが、「世界内存在」や「現存在」を繰り返すだけで同義語や類語の反復(トートロジー)を書き連ねているだけである。そして同じことをいうだけであるから、その基調はモノローグである。
その上で、アドルノは「本来性」など大袈裟な用語の内実を剔抉する。先述した彼に「熱狂したある女性」が言った人間を「死の前に立たせ」たことである。ただし、それは彼女の言う意味ではなく、死を正視・自覚して如何に生きるかという積極的主体的な意味ではなく、それに従わせるという、消極的という以上に、非人間的で暴力的な意味である。フロイトならばタナトスを見出すであろう。まさにナチに同調した所以である。それは偶然ではなく、彼の実存の現象形態であった。この点を、アドルノは「暴力は、ハイデガー哲学の言語形態のみならず、その核心にも宿っている」と指摘し、「自己保存の原理」に「隷属する者たちを脅迫する最後の手段」として「死」はあるが、この「死」を「自己保存原理それ自体の本質に転化する」とハイデガーは考えたと述べ、それを「死の弁神論」と規定する* 。「自己保存」にあくせくする者を、意味深長な言葉巧みに、その否定である死へと導くのである。
それはヘーゲルと似て非なるかたちで暴力と死を扱う論法であるとして、「絶対的な自己性への批判の起動力になるというよりも、不可避のもの--そしてそれ故に〔絶対に服従すべき〕律法に転化する」と批判し、、「暴力が死と錯綜して結びあうのは、なにも外面的にだけではない。自分自身も含め、いっさいのものはどうせ滅びるだけの価値しかないという思い、そしてその一方で、冗談じゃないと言い捨てて、自己の狭小な利害の追求にいそしむ--この両者はつねに似合いのものとして結び合ってきたのである」と述べる* 。
ヘーゲルは『精神現象学』で、次のように論じている* 。
「他方の行為と自己自身による行為という二重の行為である。行為が他方の行為である限り、各人は他方の死を目指している。だがそこにまた、自己自身による行為という第二の行為もある。というのも他人の死を目指すことは、自己の生命を賭けることを含んでいるからである。そこで、二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦によって、自分自身と互いとの真を確かめるというふうに規定されている。つまり、両方は戦におもむかねばならない。なぜならば、共に、自分だけであるという自己自身の確信を、他者においてまた自分達自身において真理に高めねばならないからである。そこで自由を保証してもらうためには、生命を賭けなければならない。……敢えて生命を賭けなかった個人は人格とは認められようけれども、自立的な自己意識として承認されているという真理に達してはいない」。
そしてこれを、ヘーゲルは「主」と「僕」の弁証法、さらに相互承認へと展開する* 。トマス・ホッブズが『リヴァイアサン』で提示した「万人の万人による闘争」を想起させる議論が自由、自立、相互承認へとダイナミックに止揚されており、確かにマルクスやエンゲルスが輩出する思想性がある。
ところが、ハイデガーは現象学を展開すると見せて、時代の主流どころか全体主義の支配的イデオロギーたるナチズムに呼応・共振し、て成り上がり、その危険性を察知すると慎重かつ巧妙に距離を置いて詩を論じ、戦後、アウシュヴィッツはじめナチの残虐な戦争犯罪が明らかになり、アドルノが「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮である」と提起しても* 、素知らぬ風に民族主義的な宿命論にニヒリズムやシニシズム(どうせ滅びるだけ等々)を加味した詩論を中心にモノローグを量産して「自己の狭小な利害の追求にいそし」み、百巻以上の全集の編集を指示して天寿を全うした。
相互承認から相互主観/主体性、その生世界を考究する現象学から実存主義への展開はカール・ヤスパースによってなされたが、しかし、難しそうな言いまわしはハイデガーの方が上手で、人より賢いと見せたい者はハイデガーに向かう。
また、戦後すぐ戦争責任を提起したヤスパースより* 、反省しないハイデガーの方を体制は重宝し、史実の正視を回避して国家や民族に依存する大衆には心地よい。かくしてハイデガーの説く「弁神論」や「律法」が権力や権威を背景に下達されるが、内容は大層な文句と裏腹で乏しく、実りある対話(ダイアローグ)、弁証法(ディアレクティク)的な止揚や発展は望めない。
<注>
* テオドール・アドルノ/笠原賢介訳『本来性という隠語-ドイツ的なイデオロギーについて-』未來社、1992年、p.164。ハイデガーに「熱狂したある女性」について、「熱狂」の後は複雑な関係性になる。ハナ・アレント「ハイデガー狐」参照(インターネットでは中山元訳があり、その後、活字ではアーレント/J.コーン編/齋藤純一、山田正行、矢野久美子共訳『アーレント政治思想集成・2-理解と政治-』みすず書房、2002年)。
* 前掲『本来性という隠語』p.84。
* 同前p.9、pp.15-16。
* 野矢茂樹訳『論理哲学論考』岩波文庫、2003年、p.39。
* 同前、p.31。
* 同前、p.63。
* 同前、p.16。
* John Emerich Edward Dalberg-Acton, Selected, and with an introduction by Gertrude Himmelfarb, Essays on Freedom and Power, The Beacon Press, 1949, p.364.
* 前掲『本来性という隠語』p.19。
* 同前、p.23。
* マルティン・ブーバー/田口義弘訳『我と汝・対話』みすず書房、1978年、p.5。
* 同前、p.23。
* ニーチェ『この人を見よ』の「なぜ私はかくも良い本を書くのか」五節。西尾幹二訳(新潮文庫版、1990年)ではp.87。
* 前掲『我と汝・対話』p.230、p.233、p.236。
* 前掲『本来性という隠語』pp.117-119。
* 同前、p.118。
* 同前、pp.150-151。
* 同前、pp.151-152。
* 同前、p.153。
* 同前、p.159。
* 同前、pp.159-160。
* 樫山欽四郎訳『精神現象学』河出書房新社、1973年、p.118、傍点原文。
* 同前、pp.119ff。
* アドルノ/木田元他訳『否定弁証法』作品社、1996年、p.438。
* ヤスパース/橋本文夫訳『責罪論』理想社、1965年。
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