東大教育学の思想と実践-周辺・境界、その「最も実践的な末端」の意義-(草稿)

周辺・境界、その「最も実践的な末端」の意義

 私は宮原先生たちを東大教育学で最も意義があり、継承・発展させるべきだと考えるが、それは中心ではなく周辺・境界、さらにその「最も実践的な末端」を志向していたことこそ重要だと評価するからである。宮原先生は水戸高校在学中に治安維持法で検挙され、一学年停学謹慎中に新興教育運動で重要な役割を果たした。五十嵐は「最優秀」の将校として従軍し、抑留生活を経て復員した。藤田先生は学部生時代はセツルメントや学生自治会で活動し、院生では農村で生活しアクション・リサーチに専心した。みな象牙の塔の枠内には収まっていない。
 また『平和教育の思想と実践』では宮原先生を西田幾多郎や三木清の教育学的な展開として論じた。そして、三木は一高から京都帝大に進み、西田幾多郎に師事し、独自の思想の構築に努めたが、治安維持法で検挙され、言論を封殺され、戦後に獄死した。
 三木の盟友で、やはり治安維持法で投獄された羽仁五郎は「一高へ入ってみると、同級生の考え方がぼくと違うのに驚いた」と述べており、私も同じように感じた*1。また羽仁は「一高から東大法学部に入ったが、官僚主義の教育にたえられず、中途で第一次世界大戦後のヨオロッパに行き、ハイデルベルク大学に入った」と述べる*2。私は文学部社会学科に進んだが、指導教員から「卒論は指導しない」と宣告され、致し方なく他の教員の指導を得て、大学院は教育学に進んだ。
 これを『アイデンティティと時代』では「マージナル・マン」とと見なす程度であったが、その後の研究から「アウトサイダー」と捉えるようになった(アウトローではない)。周辺、境界から外に足を踏み出してしまったという存在である。その理由に反骨・反権力がある。
 コリン・ウィルソンは「アウトサイダー」の意味について「サルトルの言葉を使えば『自由の宣告』を受ける」と論じる一方で、「脱出することは容易ではない。脱出すべき理由がないかのように思われるがため容易ではないのだ」と指摘した*3。この「自由の宣告」について、ジャン=ポール・サルトルは「われわれは自由へと呪われている/われわれは自由の刑を宣告されている(Nous sommnes condamnes a la liberte)」と提起した*4。彼は「私は自由であるべく運命づけられている」、「自由は自由であるように運命づけられている」とも言い換えている*5。
 これを踏まえて三木や羽仁について考えると、二人は一九二八(昭和三)年、岩波書店を退社した小林勇とともに『新興科学の旗のもとに』を創刊した。その中で、二人は党派的教条的ではないマルクス主義の考究を展開した。翌年、二人はプロレタリア科学研究所の設立に加わり、『新興科学の旗のもとに』誌は『プロレタリア科学』誌に合流した。さらに投獄された羽仁は、別の房の三木について述べており、それは獄中の三木を伝える貴重な資料である。私は羽仁の言論から大いに学んだが、もし三木が存命なら切磋琢磨して、もっと重厚になったのではないかと考えている。
 私はセツルメントから民青、共産党へと進み、当時は若気の至りで全く感じなかったが、官憲がマークする程のところにまで到っていたのだろう。
 それは生まれ育つ中で無意識に身につけた反骨と言える。それ故、マージナルというよりアウトサイダーと考えるようになったのである。これは羽仁と共通する郷土の桐生に関わと言え、別に論じる。

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