東大教育学の思想と実践-三木清の生と死-ソクラテス、また武士道のような-7

 歴史に「もし」はなく、史実に基づいて研究すべきことは理解する。ただし、これは基本で、謂わば入門レベルである。初級から中級、上級レベルに行けば、様々な可能性を検討した上で、最終的に史実となった歴史のダイナミクスにアプローチしなければならない。
 現在では過去の歴史になった事柄は、当時の当事者にとっては確定していない、従って様々な可能性のある未来であった。その時の現在では「もし」に満ちあふれていたのであり、「もし」の連続の中で人間は未来に懸け/賭け、そのような人間により社会が構成され、歴史が生成する。これが分からなければ人間が生きて死んだ歴史の本質には迫れない。
 それでは、戦後、もし三木が生きていたら、彼はソ連・中国の一党独裁体制を批判しなかったであろうか? 彼は現実に即して柔軟であり、西田の「行為的直観」を体現していた。
 彼は戦前に「東亜協同体」を提唱し、これは三木の「転向」とされるが、しかし、西洋の覇道に対する東洋の王道を提起した孫文の大アジア主義、及び日本政府の大東亜共栄圏を踏まえれば、軍国主義ではなく西洋の帝国主義に対抗する構想として評価できる(尾崎の「東亜協同体」とは近衛新体制の昭和研究会などで重なりあうところがあるが違いもある)
 三木は「死と教養について―出陣する或る学徒に答う―」において「死の問題は伝統の問題である」、「死生は一だ、というのは真理である。だがこれを弁証的に理解したからとて、死ねるものではない。死ぬるということは知識の問題ではなく信念の問題であると言われる。しからばどうして信じることができるのか。我々は伝統において信じるのである」と述べ、親鸞を引き、武士の切腹に言及し「人間は伝統の中に死に、そして伝統の中に生きる」と記し、「今日、多くの日本人が戦場に出て」、「死を恐れない」のは、「決して、西洋人が言うように本能によるのではな」く、「靖国の伝統を信じ、この伝統の中に生き、この伝統の中に死ぬることができる」からであると論じ、またベーコンの「知は力なり」を引き、「知識は一つの重要な戦力」であり、それを「単に直接に軍事に関係する知識のみではなく、あらゆる種類の教養、軍事に極めて縁遠く見える教養にしても、戦力であることができる。文武一如と考えた昔の武士はこのことを理解したのであって、文を徒に武化すること、単に実用化することを考えたのではない」と指摘し、「元気で出掛け給え」と結んでいる*1。
 当時、徴兵は拒否し難かった。当人が投獄されるだけでなく、家族、親族は「村八分」の状態に追い込まれた。その現実に立ち、「伝統」を踏まえつつ、「文武一如」と「文」、「教養」の意義へと明晰に論を展開させている。人情、人間性もわきまえており、戦争と全体主義、軍国主義の中で何とかして「人間の条件」を守ろうとしている。
 戦後、このような三木を「転向」と批判する者が多いが、その者の戦中を私は問う。無事であったことは、戦中に何も批判しなかったことを意味している。何もしなかった者が、少しでも文化、教養、「人間の条件」について論じたことを批判できるか? 臆病者の卑怯な後知恵ではないか?

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