東大教育学の思想と実践-三木清の生と死-ソクラテス、また武士道のような-3
4.
公安警察の上層部が「巧妙にしくんだ殺人」を犯したとしても(少なくとも未必の故意)、その決定の過程で、三木が如何に危険かと教唆する者がいなくてはならない。公安警察は哲学・思想の専門家ではないからである。
この点で、御用学者が問われる。仮説を提示すれば、計画した主犯は上層部、実行犯は獄吏や同房の刑事犯(日々衰弱する三木を見て見ぬふり)、教唆した共犯は御用学者という暗黙の組織犯罪と言える。
犯行の動機に関して言えば、御用学者の三木への劣等感と嫉妬である。
、三木と同時代の哲学・思想を標榜した者(特に京都や東京の帝大教授など)は、知能、問題意識、現実認識、論理の明晰さなどで差は歴然としている。
和辻哲郎は一九二七年にドイツに留学するが、不適応となり、留学途中で帰国した。取りあげるべき成果はない。
他方、三木は留学中、一九二二年五月二十七日、ドイツ語で論文を大手新聞紙に発表した。「フランクフルタア・ツァイトゥングはドイツの第一流の新聞であって、後にヒトラアによって弾圧され、廃刊した。この新聞に日本人が論文を寄稿したことは、三木清の前にも後にもなかったのではあるまいか」と、羽仁は記している*1。さらに三木はハイデガーを見極めて、一九二四年八月にパリに移ると、冬頃からパスカルの研究を始め、翌二五年二月に、その第一論文「パスカルと生の存在論的解釋」を脱稿し、同年五月、『思想』第四三号に掲載された。これはその後の一連の論文と合わせて『パスカルにおける人間の研究』として出版された。
和辻が京都・東京の帝大教授となり、三木が獄死したことは「逆選抜」の典型である。
和辻は代表例である、その下には同類が多い。
和辻や同類は、三木が解放され、しかも、思想面で戦争責任が追及されると大いに困ったことだろう(歴史に「もし」はないとの陳腐な決まり文句はご無用に、教訓を引き出すための批判的考察である)。
元々臆病で卑劣だから御用学者になった。公安の上層部は思想の専門的なことは分からず、このような御用学者に意見を求めた。仮説と推論だが、一貫性がある。
さらに、補強として羽仁の記述を引用する*1。
「(三木が)京都というところは人をディスカレッジするとなげくのをきいて、ぼくはおどろいた。後に、そのころの京都大学において三木清が卑怯なひとびとのためにうらぎられ、おとしいれられた事情を、中井正一が記している。……三本は京都に帰って一年もたたないのに、小人たちの嫉妬の空気にたえられないで、また東京にきてぼくの目白の新しい家に数日いた。」
古代ギリシャで、ソクラテスは「弁明」で、「多くの人たちの中傷と嫉妬が」、彼自身のみならず「多くのすぐれた人たちを罪に陥(おと)したのでして、これからもまた罪を負わせることになるでしょう」と予測した*2。まことに、これが三木に的中した。
劣等感や嫉妬を含む人間の劣悪な心性は独裁・専制を支える。
力量不足の官僚、小才はあるが小ずるくて卑怯な御用学者が諫言する賢者を抹殺した。
言論統制は自由な議論による選抜を妨げ、卑怯者の甘言を選び、勇気ある諫言を排する。このため批判による修正、改善ができず衆愚政治に陥る。
戦争責任では軍部の独走が前面・全面に出されるが、これも卑怯な御用学者の責任転嫁の要因がある。
三木が一九六〇年代の「時を生き」たならばと考察を進める(改めて歴史に「もし」はないとの陳腐な反論は無用)。歴史を批判し、教訓を得るためである。
羽仁がゲバルト(暴力)に共振したが*1、三木はそれを制約しただろう。三木は「人間の条件」を鍵概念とするパスカルを研究の起点に定置した。ゲバルトは「人間の条件」から外れている。
矢内原~宮原に三木が加われば、東大で学生自治が守られ、試練を乗り越え、発展したら、さらに羽仁が加わればと考えることは有意義である。
「人間の条件」を堅持した学生自治は、全国の大学に広く影響しただろう。
新左翼・全共闘は構内の占拠、施設の破壊、学生や教員のつるし上げ、拉致、軟禁、リンチ、流血の内ゲバを繰り返した。これは衆愚の極みである。
三木~矢内原~宮原の連携・共同があれば、大学はそこまでひどくはならなかったであろう。
公安警察の上層部が「巧妙にしくんだ殺人」を犯したとしても(少なくとも未必の故意)、その決定の過程で、三木が如何に危険かと教唆する者がいなくてはならない。公安警察は哲学・思想の専門家ではないからである。
この点で、御用学者が問われる。仮説を提示すれば、計画した主犯は上層部、実行犯は獄吏や同房の刑事犯(日々衰弱する三木を見て見ぬふり)、教唆した共犯は御用学者という暗黙の組織犯罪と言える。
犯行の動機に関して言えば、御用学者の三木への劣等感と嫉妬である。
、三木と同時代の哲学・思想を標榜した者(特に京都や東京の帝大教授など)は、知能、問題意識、現実認識、論理の明晰さなどで差は歴然としている。
和辻哲郎は一九二七年にドイツに留学するが、不適応となり、留学途中で帰国した。取りあげるべき成果はない。
他方、三木は留学中、一九二二年五月二十七日、ドイツ語で論文を大手新聞紙に発表した。「フランクフルタア・ツァイトゥングはドイツの第一流の新聞であって、後にヒトラアによって弾圧され、廃刊した。この新聞に日本人が論文を寄稿したことは、三木清の前にも後にもなかったのではあるまいか」と、羽仁は記している*1。さらに三木はハイデガーを見極めて、一九二四年八月にパリに移ると、冬頃からパスカルの研究を始め、翌二五年二月に、その第一論文「パスカルと生の存在論的解釋」を脱稿し、同年五月、『思想』第四三号に掲載された。これはその後の一連の論文と合わせて『パスカルにおける人間の研究』として出版された。
和辻が京都・東京の帝大教授となり、三木が獄死したことは「逆選抜」の典型である。
和辻は代表例である、その下には同類が多い。
和辻や同類は、三木が解放され、しかも、思想面で戦争責任が追及されると大いに困ったことだろう(歴史に「もし」はないとの陳腐な決まり文句はご無用に、教訓を引き出すための批判的考察である)。
元々臆病で卑劣だから御用学者になった。公安の上層部は思想の専門的なことは分からず、このような御用学者に意見を求めた。仮説と推論だが、一貫性がある。
さらに、補強として羽仁の記述を引用する*1。
「(三木が)京都というところは人をディスカレッジするとなげくのをきいて、ぼくはおどろいた。後に、そのころの京都大学において三木清が卑怯なひとびとのためにうらぎられ、おとしいれられた事情を、中井正一が記している。……三本は京都に帰って一年もたたないのに、小人たちの嫉妬の空気にたえられないで、また東京にきてぼくの目白の新しい家に数日いた。」
古代ギリシャで、ソクラテスは「弁明」で、「多くの人たちの中傷と嫉妬が」、彼自身のみならず「多くのすぐれた人たちを罪に陥(おと)したのでして、これからもまた罪を負わせることになるでしょう」と予測した*2。まことに、これが三木に的中した。
劣等感や嫉妬を含む人間の劣悪な心性は独裁・専制を支える。
力量不足の官僚、小才はあるが小ずるくて卑怯な御用学者が諫言する賢者を抹殺した。
言論統制は自由な議論による選抜を妨げ、卑怯者の甘言を選び、勇気ある諫言を排する。このため批判による修正、改善ができず衆愚政治に陥る。
戦争責任では軍部の独走が前面・全面に出されるが、これも卑怯な御用学者の責任転嫁の要因がある。
三木が一九六〇年代の「時を生き」たならばと考察を進める(改めて歴史に「もし」はないとの陳腐な反論は無用)。歴史を批判し、教訓を得るためである。
羽仁がゲバルト(暴力)に共振したが*1、三木はそれを制約しただろう。三木は「人間の条件」を鍵概念とするパスカルを研究の起点に定置した。ゲバルトは「人間の条件」から外れている。
矢内原~宮原に三木が加われば、東大で学生自治が守られ、試練を乗り越え、発展したら、さらに羽仁が加わればと考えることは有意義である。
「人間の条件」を堅持した学生自治は、全国の大学に広く影響しただろう。
新左翼・全共闘は構内の占拠、施設の破壊、学生や教員のつるし上げ、拉致、軟禁、リンチ、流血の内ゲバを繰り返した。これは衆愚の極みである。
三木~矢内原~宮原の連携・共同があれば、大学はそこまでひどくはならなかったであろう。
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