田村を読む池田を読む:後出しじゃんけん、「男の独りよがり」批判の池田が「囚われ」てるフェミニズム
1.
昨日のブログで、現代の段階から、田村と、彼の文学を追及することは批判と言うより批難であると述べた。言い換えれば、後知恵、後出しじゃんけんである。
それでは、池田は何にも「囚われて」いないかと言えば、私には、少なくとも二つ「囚われて」いると思われる。それはフェミニズムと中国共産党の欽定史観=抗日戦争、中国革命、中国人民解放(人民解放軍の名の通り)である。
2.
まずフェミニズムについて取りあげると、昨日述べたように、池田は彦坂を引いて「男のひとりよがり」を批判する(三〇七頁)。池田自身の文章の中でも「男の側の独りよがり」が指摘されており、漢字とひらがなの違いはあるが、「独りよがり/ひとりよがり」は、彼女の考え方や判断のキーワードの一つと言える。
3.
確かに、田村の文学には、男の「独りよがり」の性質があるが、これは、そもそも、男なら誰もが多かれ少なかれあるのではないか?
フェミニズムは、それを暴力に結びつけて批判するが、注意すべきは、男の「独りよがり」をなくすことは、男のアイデンティティを損壊することになる(存在・実存の去勢とも言える)。
これは、フロイトのリビドー、エロス、タナトスやローレンツの攻撃などの研究から分かる。フェミニズムが台頭し、いくつかの亜流が入り乱れた後、「草食系」男子が現れ、話題になったという状況は注視し、熟考すべきである。
私は院生時代(1980年代初)から、「男は敵だ」という意味の発言を幾度も受け、彦坂のように「男のひとりよがり」を自覚・自省し、克服しようとしたが、身体まで改造しようとまでは思えなかった。そして、これができなければ、やはり男として自省的に考え、判断するしかなく、女性と緊張関係において対峙・対話せざるを得ないと考えるに至った。
4.
これは本能的な次元で心理のみならず身体にも関わる。
女性が更年期に心身のバランスが失調、変調し、感情の動きが激しくなるのは、個体発生と系統発生の相関性から見れば、動物の母の子別れにおける激しい拒絶・排斥の進化と慣性(ハビトゥス)と捉えることができる。私は、フロイトやローレンツが女性の更年期を論じたことは知らない(あればご教示を願う)。彼らから学んだことを、私なりに応用したまでである。
そして、人間は動物から進化したが、動物的な要素を完全に脱却したわけではない。
そして、多角的に考察すれば、その中に肯定的で積極的な側面もある。事物は正負、明暗、陰陽、高低など様々なグラデーションで構成されている。
動物的な子別れの本能がエスの奥底にしまい込まれ、さらにそのハビトゥスも精神力と学習で抑え込まれたら、母性愛とのバランスが失調し、子離れできず、過保護になる。
5.
このようなわけで、フェミニズムは、あくまでも特定の立場であると言える。
さらに、女性は差別され、そのような女性の解放を唱うから、フェミニズムは女性全体を代表できるだろうか? そうではない女性の方がはるかに多いと、研究や見聞から判断する。日本でフェミニズムが広がったのが1980年代であり、30年経て、このようである。フェミニズムは、女性の中でも特定の立場である。
それ故、男のアイデンティティを損壊する、存在・実存の去勢の如きことに繋がりかねない、男の「独りよがり」批判は、やはり批判と言うより批難と考える。
6.
あたかもフェミニズムが女性全体を代表するかのような議論は(池田の論理展開はまだ控え目だが)、共産党は労働者階級の解放を通した全人類の解放を唱うから全人類を代表するという議論に相似している。
それはまた、極めて少数のカム・アウトした被害者が「慰安婦」全体を代表しているような発言とも相似している。
中国共産党の欽定史観に関する検討は、次回に行う計画。
昨日のブログで、現代の段階から、田村と、彼の文学を追及することは批判と言うより批難であると述べた。言い換えれば、後知恵、後出しじゃんけんである。
それでは、池田は何にも「囚われて」いないかと言えば、私には、少なくとも二つ「囚われて」いると思われる。それはフェミニズムと中国共産党の欽定史観=抗日戦争、中国革命、中国人民解放(人民解放軍の名の通り)である。
2.
まずフェミニズムについて取りあげると、昨日述べたように、池田は彦坂を引いて「男のひとりよがり」を批判する(三〇七頁)。池田自身の文章の中でも「男の側の独りよがり」が指摘されており、漢字とひらがなの違いはあるが、「独りよがり/ひとりよがり」は、彼女の考え方や判断のキーワードの一つと言える。
3.
確かに、田村の文学には、男の「独りよがり」の性質があるが、これは、そもそも、男なら誰もが多かれ少なかれあるのではないか?
フェミニズムは、それを暴力に結びつけて批判するが、注意すべきは、男の「独りよがり」をなくすことは、男のアイデンティティを損壊することになる(存在・実存の去勢とも言える)。
これは、フロイトのリビドー、エロス、タナトスやローレンツの攻撃などの研究から分かる。フェミニズムが台頭し、いくつかの亜流が入り乱れた後、「草食系」男子が現れ、話題になったという状況は注視し、熟考すべきである。
私は院生時代(1980年代初)から、「男は敵だ」という意味の発言を幾度も受け、彦坂のように「男のひとりよがり」を自覚・自省し、克服しようとしたが、身体まで改造しようとまでは思えなかった。そして、これができなければ、やはり男として自省的に考え、判断するしかなく、女性と緊張関係において対峙・対話せざるを得ないと考えるに至った。
4.
これは本能的な次元で心理のみならず身体にも関わる。
女性が更年期に心身のバランスが失調、変調し、感情の動きが激しくなるのは、個体発生と系統発生の相関性から見れば、動物の母の子別れにおける激しい拒絶・排斥の進化と慣性(ハビトゥス)と捉えることができる。私は、フロイトやローレンツが女性の更年期を論じたことは知らない(あればご教示を願う)。彼らから学んだことを、私なりに応用したまでである。
そして、人間は動物から進化したが、動物的な要素を完全に脱却したわけではない。
そして、多角的に考察すれば、その中に肯定的で積極的な側面もある。事物は正負、明暗、陰陽、高低など様々なグラデーションで構成されている。
動物的な子別れの本能がエスの奥底にしまい込まれ、さらにそのハビトゥスも精神力と学習で抑え込まれたら、母性愛とのバランスが失調し、子離れできず、過保護になる。
5.
このようなわけで、フェミニズムは、あくまでも特定の立場であると言える。
さらに、女性は差別され、そのような女性の解放を唱うから、フェミニズムは女性全体を代表できるだろうか? そうではない女性の方がはるかに多いと、研究や見聞から判断する。日本でフェミニズムが広がったのが1980年代であり、30年経て、このようである。フェミニズムは、女性の中でも特定の立場である。
それ故、男のアイデンティティを損壊する、存在・実存の去勢の如きことに繋がりかねない、男の「独りよがり」批判は、やはり批判と言うより批難と考える。
6.
あたかもフェミニズムが女性全体を代表するかのような議論は(池田の論理展開はまだ控え目だが)、共産党は労働者階級の解放を通した全人類の解放を唱うから全人類を代表するという議論に相似している。
それはまた、極めて少数のカム・アウトした被害者が「慰安婦」全体を代表しているような発言とも相似している。
中国共産党の欽定史観に関する検討は、次回に行う計画。
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