映画「KANO1931-海の向こうの甲子園」、札幌商業のピッチャー、バシー海峡、慰霊など

 映画「KANO」について、小ブログで2月9日について述べた。
http://85666808.at.webry.info/201502/article_6.html

 そして先日、大阪日台交流協会の野口一会長の以下の文章を拝読し、まことに見方が浅かったと反省し、ここに、野口会長のご承諾を得て、感謝を以て再掲させていただく。

バシー海峡慰霊の旅へのお誘い
 台湾映画「KANO1931-海の向こうの甲子園」をかなりの方がご覧になられたと思います。
 嘉義農林中学が夏の甲子園に初出場をしたのが昭和6年(1931年)ですが、映画自体は戦局が悪化する一方だった昭和19年夏、日本から台湾・基隆港に船が到着し、日本軍の兵隊も乗客として、台湾南部へ向かう汽車に乗り換えるシーンから始まります。
 昭和6年当時に甲子園で嘉義農林と対戦した札幌商業のピッチャーが兵隊となり、対戦した当時の光景を列車内で回想していく設定です。
 軍需物資積み替えのため、汽車は2時間以上途中の嘉義で停車します。この兵隊は停車時間を利用して、かつての対戦相手が練習していたグラウンドを見つけ、ダイヤモンドを全力疾走し、当時の相手選手、チーム、そして必死に投げた自分を思い出していきます。
 時代背景をさらに考察しますと、嘉義農林が出場した前年の、昭和5年(1930年)には霧社事件(台湾原住民による日本時代後期における最大規模の抗日暴動事件)発生を受けて、台湾総督府は原住民統治の抜本的な改革に迫られます。翌年の嘉義農林が漢人、蛮人、日本人の3民族混成チームで甲子園での大活躍ぶりは、当時の総督府の同化推進策を大きく後押ししたに違いありません。
 これに限らず、映画は所詮娯楽なので、多種多様の感じ方、評価があっていいと思いますが、この映画作品では、前述の札幌商業出身の兵隊のことがどうしても気になりました。
 嘉義農林のグラウンドで大声で叫んだあと、この兵隊のシーンは出てきません。制作者のねらいとして敢えて出さなかったのでしょう。だがその意図を理解したとき、切なさのあまり改めて慟哭の想いにかられました。
 というのも、昭和19年、戦局の悪化、大東亜戦争において台湾自体は戦場にはならなりませんでした。ということは、この兵隊は台湾からさらに南方の戦線に派兵され、フィリピンあたりまで行ったのか、たどり着かず途中の洋上で犠牲になったのか、いずれかでありましょう。
 グラウンドで叫ぶ兵隊のシーンは、片道切符で南方戦線に向かう自分の運命を受け入れようとしていたのだと私は思いました。
 私は銀幕を通して、この元球児の兵隊とは無言で意思の疎通を果たせたと確信しました。
 今度は、4月にバシー海峡で犠牲になられた数十万の御霊の近くまで有志と共に訪問して、意思の疎通をはかりたいと願っています。人種、国籍を問わず無念のまま海の底で眠っておられる皆様方の事を、我々は決して忘れてはいないことを伝えたいのです。
 潮音寺(*注)で共にいのりませんか。
 大阪日台交流協会
 会長 野口 一

*注
 潮音寺は、バシー海峡を臨む地に、1981年8月に、航海で遭難した人々、太平洋戦争で日本のみならず、各国の撃沈された艦艇とともに死没した人々を慰霊するために建立された(大阪日台交流協会やインターネットの情報より。以下同様)。
 潮音寺は、1944年にバシー海峡でアメリカ軍の潜水艦によって撃沈した輸送船「玉津丸」の数少ない生存者である中嶋秀次氏の私財と遺族の募金によってなされた。そして、戦中、日本軍でともに戦った台湾人の戦友が一千坪余りの土地を譲ってくれることになった。
 当時、日本人は土地を購入できなかったため、中島氏と戦友はお互いに信頼しあい、土地・建物の登記は曖昧にしたままであった。しかし、戦友が亡くなると、息子は土地を転売し、業者が寺院を壊して、リゾート施設を建設しようとした。
 これは見過ごすことができず、裁判となったが、中嶋氏がこの土地を購入し、寺院を建立したことを証明する資料がほとんどなかった。しかし、高雄芸品百貨公司副社長の鐘佐柴女史の援助により潮音寺は守られてきた。
 なお、2015年4月17日から20日にかけて「台湾バシー海峡慰霊四日間」の旅行がなされる。

参考1:
台湾の霊堂、日本兵弔い続け70年 「心一つに戦った」絆今も大切に
産経新聞2015年2月14日(土)15:57
 戦後70年、第二次大戦で亡くなった日本兵を弔い続ける小さな霊堂が台湾・新竹市にある。戦時中、日本兵と絆を育んだ住民たちが、米軍による空爆の犠牲者を悼んで小さな石などを祭るようになり、終戦後の戒厳令下、親日的な行動が許されなかった時代も大切に守り続けてきた。現地の住民は「日本人と心を一つにして先の大戦を戦ったという思いがあったから、今日まで慰霊を続けてきたのだと思う」と語る。(永原慎吾)
 鮮やかな朱色の門をくぐると、絶え間なくたかれた線香の香りがほのかに漂う。地元住民が手を合わせる祭壇には、高さ20~40センチほどだが、軍刀を携えた3体の日本兵像が縦一列に鎮座する。
 台湾海峡からの強風が吹き付けることから「風の街」とも呼ばれる新竹市。その海岸近くに位置する道教の寺院「新竹代天府」の境内に、日本兵を祭る「聖軍堂」がある。
■  ■  ■
 日本の統治時代、市内には日本軍の飛行基地があった。「日本兵は偉そうで、もし戦争に負けていなければ、今でも威張っていたかもしれない」と振り返る住民もいる。
 それでも多くの日本兵は規律正しく振る舞い、住民との絆を強めたと伝えられている。大雨の際、地元の橋が流されないか日本兵が警戒にあたり、1人が濁流にのまれて亡くなったとも言われている。
 戦局が悪化する中、戦火は台湾にも及び、昭和18年11月には新竹市の基地も米軍による空爆を受け、25人の日本兵が亡くなった。記録には残っていないが、終戦間際にも爆撃があり、日本兵だけでなく住民も犠牲になったという。
 新竹代天府の現在の責任者、彭徳林(ポントゥリン)主任委員(63)によると、終戦直後から日本兵の魂が宿るとされる石をお堂に祭るようになった。国民党政府が戒厳令を敷き、親日的な行動を許さなくなっても住民による慰霊は途絶えなかった。役人から「日本兵を祭っているのか」と質されるたびに「台湾人だ」とごまかし、守り通したという。
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 国民党政府を率いた蒋介石(1887~1975年)が死去した後、日本兵の像が安置され、お堂は「聖軍堂」と名付けられた。死者を悼む慰霊祭も続けられている。
 新竹市に住む廖受章(リャオショウチャン)さん(84)は、今も慰霊を続ける1人。13歳で親元を離れて日本に渡り、神奈川県にあった高座海軍工廠(こうしょう)などで少年工として戦闘機づくりに従事した。
 空襲におびえながらの作業だったが、「子供や夫を戦地に送った日本人たちに食事をごちそうしてもらい、かわいがってもらった」と振り返る。
 終戦後、台湾に戻り、同じく少年工として働いた台湾人らで作る「台湾高座会」に入会し、聖軍堂の存在を知った。
 戦後70年もの間、なぜ台湾の地で日本兵が弔われ続けているのか。廖さんは、かつて学んだ流暢(りゅうちょう)な日本語で「日本人と心を一つにして先の大戦を戦ったという思いがあったから、今日まで慰霊を続けてきたのだと思う。あなたたちの先祖を台湾人が大切に思っていること、日本と台湾の絆が残っていることを知ってほしい」と語った。

参考2:
【日本兵弔い】台湾、日本人への親しみ浸透 各地で慰霊、教科書やアニメで功績紹介も
産経新聞2015年2月14日(土)16:12
 台湾・新竹市で続く旧日本兵の弔い。台湾では先の大戦で亡くなった日本人を慰霊したり、称えたりするケースは他にもある。
 海軍巡査隊に所属し、ルソン島で戦った台湾人が約40年前、死亡した日本人隊長を悼んで台湾・苗栗(びょうりつ)の寺院に位牌(いはい)を奉納。約2年前に他界するまで、慰霊を続けた。
 統治時代に台南市でダムを築くなど近代化に貢献した日本人技師、八田(はった)與一(よいち)氏(1886~1942)は、フィリピンへ向かうために乗った船が米軍潜水艦に撃沈され死亡。夫の死を嘆いた妻も後を追って自ら命を絶った。八田氏が残した功績は今でも現地で称えられ、記念公園が作られているほか、教科書やアニメなどでも取り上げられている。
 昭和19年、台湾上空で米軍に戦闘機を撃墜され、戦死した飛行士、長谷(ながたに)諒卓(りょうたく)氏=当時29歳=は、集落への墜落を避けるように旋回し畑に突っ込んだ。遺族によると、当時、集落の住民たちは記念碑を立てて花を手向けたといい、遺族宛てには感謝の思いをつづった手紙が送られた。
 台湾在住の作家、片倉佳史さんは「台湾人の信仰心のあつさというのもあるだろうが、戦争という悲劇をともに経験したことで、日本人を他人とは思えず、特別な存在として認識してくれているのではないか」と話す。

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