生涯教育計画論 第4回 講義ノート その2
26.鈴木健次郎の実践
公民館と公民館主事
鈴木健次郎が考え、実践した公民館、公民館委員会、公民館主事、
それが、小畑知事の秋田県政と民衆教育主事へと展開(後述)
注意点:
横山・小林編『公民館史資料集成』の末本誠・上野景三執筆「特論」766頁では、
下村・鈴木を寺中の「ブレーン」と位置づけているが、鈴木の出処進退の実践、宮原との対談などを踏まえれば、誤りである。
なお、同書の275頁から276頁にかけて寺中氏は「公民館構想のころ」という文章で「もとは内務省の採用で、(文部省に移る-引用者注)数年前までは地方庁に勤務し、地方課で自治行政の監査や選挙の事務なども担当し、選挙粛清運動(略)などに若い情熱と生き甲斐を傾倒した時期もあり(略)下村湖人氏の「煙仲間」の説や「次郎物語」にも感動し、また青年の父といわれた田沢義鋪氏にもひそかに私淑するところがあった。」と述べているが、やはり上記、特に公民館委員会の廃止を考えれば、官僚の釈明と言わざるを得ない。
『公民館史資料集成』の記述は、「寺中構想」という用語に関わり、注意すべきである。
26-1.宮原の実践論、鈴木の公民館論
宮原の「最も実践的な末端」は、その脈絡、発展に位置づけられる。
また戦後、地域の民主主義(基層の民主主義)の場として公民館の普及に努めた鈴木健次郎の「白鳥芦花に入る」の実践思想は、キリスト教的な博愛精神や日本的で禅的な精神、さらに「秘すれば花」(世阿弥)的な実践感覚もあった。
宮原・鈴木対談「社会教育法十周年と社会教育の現実」(『月刊社会教育』1959年6月号。『鈴木健次郎全集』第2巻、秋田青年会館、1974年に収録)
「社会教育法でつぶされた公民館委員会」の小見出しから
公民館委員の公選制→任命制
教育委員会法での教育委員の公選制→失効で任命制(1956年)
「最も実践的な末端」からの下意上達、ボトムアップの弱体化。社会の最基層における民主主義、国家レベルで考えるのが難しい者でも判断できる民主主義が消滅。
教育の国家統制の強化。
26-2.公民館
基層の草の根民主主義のための拠点として
そこにおける「対話」、合意形成の場として
所謂「市町村主義」の施設として(市は大都市でない)、
民主主義の基盤としての草の根民主主義、
これは「最も実践的な末端」(宮原誠一)に通じる。
また、小中高の班活動、学級活動、ホーム・ルーム、特別活動等の発展として
「市町村主義」のため、公民館は、大都市の東京都区内や大阪・京都・横浜市内にはない。
大都市の関連施設は、生涯学習センター、社会教育館など名称は様々。
そして、「市町村主義」と国(国家、祖国、生国)の関連では、
国家主義に向かわずに、上意下達と下意上達、「一即多、多即一」の弁証法が重要である。
それは「矛盾」だが、現実は矛盾で、それが発展の契機・力学(モメント)になる。
「絶対矛盾的自己同一」(西田)
27.「鈴木イズム」
27-1.「鈴木イズム」との出遭い
鈴木健次郎の思想と実践は「鈴木イズム」と呼ばれる。
それは、田澤義鋪(青年団の父と呼ばれる)、下村湖人の系譜に位置づけられ、さらに宮原誠一へと展開されている。私は、その継承・発展に努める。
私は、秋田で開催された社会教育法50周年記念の講演で「寺中構想」を話したところ、参加者から鈴木健次郎も紹介すべきだとの指摘を受けた。その時は、鈴木に関して十分に知らず、その後、勉強し、「寺中構想」より、こちらを伝えるべきだと考えを改めた。
参考文献:
鈴木文庫懇談会編『鈴木健次郎集』第1巻、1974年
--『鈴木健次郎集』第2巻、1974年
--『鈴木健次郎集』第3巻、1976年
小畑勇二郎『秋田の生涯教育』全日本社会教育連合会、1979年
秋田県生涯教育推進本部事務局『秋田県の生涯教育-10年の軌跡-』1980年
鈴木健次郎記念会『鈴木健次郎の生涯-青少年の足を洗う-』秋田県青年会館、1990年
宮原・鈴木の対談「社会教育法十周年と社会教育の現実」初出は『月刊社会教育』1959年6月号、『鈴木健次郎全集』第2巻、秋田青年会館、1974年に収録、pp.306-314
山田正行「学習者の足を洗う社会教育実践を目指して-「鈴木イズム」の継承と発展」『社会教育-来し方、行く末-秋田県社会教育委員連絡協議会結成30周年記念誌』2002年1月。
同「足を洗う社会教育実践」『あきた青年広論』第87号、2005年1月
同「提言・田口清克氏を追悼して・「鈴木イズム」の実践」『あきた青年広論』第95号、2008年12月
同「秋田で鈴木健次郎に学び、大阪で研鑽し、活用」『あきた青年広論』第107号、2015年5月
27-2.
鈴木イズムの代表的な箴言、鍵概念
「白鳥蘆花に入る」
「学習者の足を洗う」
「汝、何のためにそこにありや」
「非凡は平凡の積み重ね」
「地下水の働き」
「煙仲間」
それぞれは密接に連関して、実践に結実している。
全体を通じて、己を低くして,目立たさないという意味が貫かれている。
それは宮原の「最も実践的な末端」の立場に通じる。
このような実践者として「公民館主事」、そして「社会教育主事」を考えることが重要である。
参考1:
「社会教育は、段取り八分だ!」
一九八〇年代後半、バブルの時代、群馬県高崎市で私の講演を聞いた社会教育主事が「社会教育は、段取り八分だ!」と語った。
その後、秋田で「鈴木イズム」を学び、これを想い出した。
参考2:「秘すれば花」
さらに、日本の伝統に引きつけて考えると、
世阿弥の「秘すれば花」(『風姿花伝(花伝書)』より)を想起する。
参考3:
白土三平の『サスケ』、『忍者武芸帳-影丸伝-』、『カムイ伝』、『カムイ外伝』などを愛読した私は、「鈴木イズム」は忍びの道にも通じると考えた。
以下のような記述もある。
「伊賀は四方を山で囲まれた高原盆地で、奈良や京都から離れているに拘らず、独特な文化を育んできた地方です。東のかた、うねうねとつづく丘陵には、古墳群が望まれ、西は梅で名高い月ヶ瀬から、柳生を経て、笠置へ越える山なみ。北は甲賀から信楽へぬける峠がつづき、南は室生、榛原、長谷を経て、大和の桜井へ出る伊勢街道がひらけています。何れも木津川、伊賀川、初瀬川などにそった深い渓谷で、世間からまったく隔絶されたこのような所に、特殊な文化が芽ばえたのは、故なきことではないと思います。
世阿弥ばかりでなく、芭蕉も伊賀の出身でした。……忍術が、ここで発生したのは読者もご承知のことでしょう。能の幽玄、俳句の風雅、隠微な忍者の伝統には、それぞれ別の道を辿ったといえ、何かしら濃い血のつながりが感じられます。……観阿弥も、伊賀の服部氏の一族でした。服部氏は後世の服部半蔵などで知られる如く、忍術の方では著名な家柄です。観阿弥が忍者だったとは申しませんが、そういう雰囲気の中で育ったことは確かです。観阿弥の母、つまり世阿弥の祖母に当たる人は、楠木正成の姉で、したがって南朝とは切っても切れぬつながりがあったのです。正成が多くの忍者を用いたことは有名で、神出鬼没の彼自身も、いわば忍者の親方のような人物だったかも知れません。」*1
引用文中で「能の幽玄、俳句の風雅、隠微な忍者の伝統」とあるが、忍者をモチーフにした作品は多く、今でも人気は根強いことを考えると、白土が描き出した最下層の戦士、その葛藤に注目すべきと考える。
27-3.「白鳥蘆花に入る(白鳥入芦花)」
① 下村湖人『次郎物語』第三部、八「白鳥会」、九「自己を掘る」より。
「芦が密生していて、銀色の穂波がまばゆいように陽に光っている。一羽の真白な鳥が、ふわりと青空を舞いおりて、その穂波に姿をかくした光景」
「すると、白鳥芦花に入るっていうのは、誠という意味ですか。」
「そう言ってしまっても、いけないでしょうけれど、煎せんじつめると、そうなるかも知れませんわ。」
「どうして、そうなるんです。」
「そこを次郎さんが自分で考えてみるといいわ。」
「真白な鳥が、真白な芦原の中に舞いこむ、すると、その姿は見えなくなる。しかし、その羽風のために、今まで眠っていた芦原が一面にそよぎ出す、というのだ。お互いに、この白鳥の真似がしてみたいものだね。しかし、なかなかむずかしいぞ。それがほんとうに出来るまでには、よほど心を練らなくちゃならん。自分の正しさに捉われて、けちな勝利を夢みているようでは、とても白鳥の真似は出来るものでない。良寛のような人でも、「千とせのなかの一日なりとも」と歌っているくらいだからね。」
これらとともに良寛や「まこと」についても記述されており、その精神は禅的であることが分かる。
「まこと」は誠、信、真、実、慎、允など多くの漢字の意味を集約していると言える。
② 下村~鈴木
「…白い鳥が白い蘆の花の中に入ったというのです。鳥の姿が同じ白色なので、その姿はさだかでないが、しかし鳥の入ったことによって蘆花が、一波が万波をよぶように動き出したというのであります。わたくしは公民館の町村社会における姿をこのように解したい。」(鈴木『郷土自治建設と公民館』1950年)
鈴木は「下村湖人追悼」で「白鳥入芦花」とともに「全体に則して独自に生きる」を提起。
「昭和のはじめ、青年団に一緒に勤めていた頃、よく先生のお宅をお訪ねした。先生のあたたかい家庭の雰囲気の中で、いろいろと教えていただいたことが、わたくしが終戦後公民館の仕事にたずさわるようになって、公民館の生命をつくるうえに、大きな力となったことであった。公民館が今日単なるバタ臭い文化施設にならないで、よく日本の風土の中に生きたのも、先生のよくいわれた『白鳥入芦花』の精神の展開であったとさえ思っている。先生がよく『全体に則して独自に生きる』といわれたが、公民館の郷土におけるあり方を具体化するうえにも、指導の光りであった。」*1
③ 実践の場としての公民館
「白鳥芦花に入る」
鈴木は、当時、NHKで『次郎物語』が放送されていたことを受けて執筆したと説明した上で、
「全郷土民は公民館を通して、郷土の平和と発展のために、それぞれの正しい立場を理解し努力すべきだと説いたのである。」
と述べている*2。
また、
「町村」の公民館を論じて「土地の人々の要求をみたす施設内容を持たねばならぬ」、そして「総合的機能」という二点を提示し、「白鳥入芦花」を説き、「総合は支配ではない。全体に則して独自に生きる」と述べている*3。
ここでも「全体に則して独自に生きる」が提起されている。
それは、「一即多、多即一」の弁証法の、下村=鈴木的な表現である。
④ 鈴木~小畑
生涯教育推進体制をいち早く整備した秋田県の小畑勇二郎知事は、鈴木への1970年8月30日の「弔辞」で「よく下村湖人の『白鳥蘆花に入る』という言葉を使っておられた」と述べている。小畑勇二郎顕彰会編『大いなる秋田を-『小畑勇二郎の生涯』補遺選-』2001年、p.390
参考、発展:
「白鳥入芦花」に「白鳥の歌」を加味
「白鳥入芦花」は禅的な精神を基調としているが、それを踏まえて、私はヘレニズム的「白鳥の歌」を加味して、精神的な世界を豊にしようと試みる。
古代ギリシャでは、白鳥は音楽、予言、神託の神であるアポロンの鳥とされ、白鳥自身も予知の力を備えており、死を迎えるとき、最後にひときわ来世で幸福になることを喜び、歌うと伝えられていた。
ソクラテスは「白鳥はいつも歌いつづけてきたのだが、自分が死ななければならないことを知ると、そのときはいつもよりもっとさかんに、もっと美しく歌うものだ。主なる神のみもとに行こうとしているのを喜んでね」と述べている(田中・池田訳、一六四頁)。
そして、シベリウスの「トゥオネラの白鳥」の幻想的で悲愴な楽想は、その音楽的な表現である。
なお、ソクラテスは「真に哲学すること」は「真の意味で平然として死ぬことを練習することに他ならない」とも述べており、如何に生きるかは如何に死ぬかということであり、如何に死ぬかは如何に生きるかということであるという死生観を有していた(田中・池田訳、一五六頁)。
27-4.学習者の「足を洗う」精神
鈴木が秋田高校に校長として赴任し、抱負を教職員に述べたとき「青少年の指導とは青少年の足を洗うことだ」と語った*1。そして、この「青少年の指導とは青少年の足を洗うことだ」という指導観は、「田沢義鋪の言葉に基づくものであるが、聖書の中のキリストが弟子たちの足を洗うところからきているもので、自己を捧げて他を生かす献身的な愛情なのである」と述べられている*2。
キリスト教信仰に関しては、鈴木は、1929年12月24日、カトリック本郷教会で、田中耕太郎(当時東京帝国大学教授、後に文部大臣、最高裁判所長官)を代父にして受洗した。その後、確かに鈴木は「戦争中、靖国神社の前で遺族がひれ伏しているのを見て神の存在が信じられなくなり、教会にも行かなくなった」と語ったと書かれているが*3、しかし、キリスト教的な精神は深い次元で存続していたと言える。
参考:
ヘブライズム、聖書より
「彼らの足を洗い、己が上衣を着、再び席につきて後、言い給う。我が汝らに為したることを知るか。汝ら我を師または主ととなう。しか言うは正しい。我はこれなり。我は師または主なるに、なお汝らの足を洗いたれば、汝らも互いに足を洗うべきなり。我、汝らに模範を示せり。我が為しし如く、汝らも為さんためなり」(「ヨハネ福音書」13章12節)
「食卓につく者と仕うる者とは、いずれが大なるか。食事の席につく者ならずや。されど我は汝らのうちにて仕うる者のごとし」(「ルカ福音書」22章27節)
「種を蒔く者が刈り入れる者と共に喜ぶのである。 このことにおいて、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。」(「ヨハネ福音書」四章三六~三七節)。
イエスは、「ヨブ記」三一章八節や「ミカ書」六章一五節に記されている、自分の苦労が報われないという意味で使われていた「ことわざ」を発展させた。
「地の塩」であってこそ「世の光」となる。(『アイデンティティと時代』p.184で言及)
教える者が身を低くする。
「汝自身を知れ」
古代ギリシャのデルポイのアポロン神殿の入口に刻まれた箴言であり、ソクラテスの産婆術、問答法とともに意義を考える。
聖書「マタイ福音書」7章、「山上の垂訓」の章句。
「自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」
マルクス「教育者自身が教育されなければならない」(フォイエルバッハに関するテーゼ・第三)
教育者と学習者、それぞれにおける相互教育、そして自己教育、自己分析。
→パウロ・フレイレの解放の教育学
「対話」と「意識化」、「批判的自省」
「意識化」の原語のポルトガル語のconscientizaçãoは「良心の覚醒」や「善悪の自覚」という「すぐれて倫理的な意味をあわせもっており、そこには神にたいする人間の関係が暗黙のうちに前提とされている。」*1
フレイレは「キリスト教徒とマルクス主義者は、部分的にあるいは全体的に私と見解を異にするとしても、最後まで読みつづけてくれるだろう、と私は確信している」*2
また彼は「回心(conversion)」*3も用いている。
解放の教育学は解放の神学と連動していた。
27-5.「汝、何のためにそこにありや」
鈴木は秋田高校で、これを高校生に語り伝えた。
それを聞いた時は「何だか分からなかったが、社会教育で働くうちに、分かるような気がしてきた」と、秋田県生涯学習課課長はじめ数人から聞いた(私が秋田に在住していた1990年代から2003年までの間)
先2013:「汝、何のためにそこにありや」は、自分にとって意味のある人生、生きる意味、永遠の課題、無限の営為である。
山田:アイデンティティへの問いかけであり、それを「無限の営為」に結びつけたのは、パスカル「人間が無限に人間を超えることを学べ(apprenez que l'homme passe infiniment l'homme)」(『パンセ』434)を思わされた。
27-6.「煙仲間」の精神と実践
かつて村人や連中が囲炉裏で輪=和になり、村のため、みなのためにと熱く語り合い、散会した後、囲炉裏の火は消え、煙が昇るだけになっても、各人の心の中に熱い炎は燃え続け、それが弱くなる頃、再び輪=和になり、熱く語り合い、再び炎を燃え上がらせるという情景を思わされる。
また、「煙」には、かつて軍国主義で「一億火の玉」のスローガンのように、熱く燃えあがった集団心理に対する「秘すれば花」的な対置も考えられる。
サークル、共同学習、共同研究の日本的な展開
→課題研究、ゼミなどで
27-7.鈴木の思想と実践(文部省から自治体、民間、そして秋田の高校へ)
鈴木健次郎は「社会教育」や「公民館」を提唱しただけでなく、社会教育法が一九四九年に制定され、これからその業績に立ってという段階において、一九五一年に文部省を退いた。そして、福岡県の教育行政、民間放送、秋田県の高校で実践した。
一九五一年六月一日付で文部省から福岡県教育委員会社会教育課に転出したことを「文部省で築きあげた公民館理論を現場で実証」したと記されている*1。
鈴木は、その後一九五八年八月に福岡県教育委員会を退職し、日本教育テレビ(現テレビ朝日)に入社し、一九六三年四月には秋田高校校長となり、文部省には戻っていない。
それは「白鳥入芦花」、「地下水の働き」の精神を身を以て実践したことである。
宮原誠一の「最も実践的な末端」に通じる。
知行合一、言行一致である。
<共同学習>
先2011:カウンセリングには、「足を洗う」という精神に近いものがある。
先2012:「白鳥入芦花」は、イソップの寓話「北風と太陽」のようだ。
先2013:「花よりも、花を咲かせる土になれ」(山下智茂星稜高野球部元監督)。
先2014:「縁の下の力持ち」
先2014:白鳥は優雅に泳いでいるが、水面下で足をせわしなく一生懸命に動かしている。
「地下水の働き」に通じる。
28.秋田における小畑県政と民衆教育主事
生涯教育振興のために、英国、仏国、米国の動向を紹介する中で、仏国の「アニマトゥール」を「いわゆる指導主事(民衆教育主事)」と紹介している。
「アニマシオン」は「活性化」に類似した実践である。
しかも、詰め込みの「銀行型」教育(フレイレ)ではなく、主体的に学習し、摂取して、秋田の現実に即して「民衆教育主事」として推進した。
1972年11月10日に秋田県生涯教育推進集会が開催された。
これは、臨教審(後述)が「生涯学習」を提唱する十年以上も前のことである。
<文献>
小畑勇二郎「七十年代の教育を考える-生涯教育体系の確立を-」(1970年9月7日、秋田青年会議所主催の講演会の要旨)小畑勇二郎顕彰会編『大いなる秋田を-『小畑勇二郎の生涯』補遺選-』2001年、pp.139ff。及び小畑勇二郎『秋田の生涯教育』全日本社会教育連合会、1979年、pp.24-26。
なお、前者『大いなる秋田を-『小畑勇二郎の生涯』補遺選-』は、秋田県連合青年会事務局長の田口清克氏から贈られた。
『秋田県の生涯教育―10年の足跡―』の「生涯教育奨励員」の章では、以下のように述べられている*1。
「フランスに、アニマトールとよばれる人達がいる。しいて日本流に訳せば『民衆教育主事』というところかもしれない。(略)アニマトールとは、文字通り文化活動団体の自発性ないし、自治的精神を尊重しながら、学習に“活気を与える”ものとしての役目をになっている。(略)フランスの例であり、そのまま本県にあてはまるのでは勿論ない。要は、従来の指導者の概念やイメージを払しょくして、生涯教育の推進に新しいタイプの指導者が必要であるということである。」
前掲『大いなる秋田を-『小畑勇二郎の生涯』補遺選-』p.139。
小畑は、ソ連を視察し、特に幼児教育を中心に、事前にクループスカヤ(レーニンの妻)の「本を読んで、たいへん感激し」た。
保守県政でソ連、クループスカヤの評価。アラゴンとともに、多角的に考えるべき。
前掲『秋田の生涯教育』の扉には「学ぶとは、誠を胸に刻むこと 教えるとは、ともに希望を語ること」が掲げられている。これは引用ではないため典拠は記されていないが、作家で共産党員のルイ・アラゴンの詩句であり(大島博光訳『フランスの起床ラッパ』新日本出版社、1980年、新日本文庫)、それが保守的とされている秋田の知事である小畑の著書の扉に使われたことは注目すべきである。
現実は多面的で複雑である。
参考:生涯教育原論、『アイデンティティと時代』のエピグラフやp.173。
さらに『平和教育の思想と実践』第二章
前掲『大いなる秋田を-『小畑勇二郎の生涯』補遺選-』pp.148-150。
生涯教育についてフランス語のeducation permananteと英語のlifelong educationを踏まえて受けとめ、さらに日本の「教育」と比較し、「引き出し、伸ばそうとする考え方」と「受ける人の意志にかかわりなく上から与え、外から働きかけるというニュアンス」の相違を指摘し、そして先述の「アニマトゥール、いわゆる指導主事(民衆教育主事)」について述べている。
同前、p.390では
鈴木健次郎を追悼し「白鳥蘆花に入る」の精神を顕彰している。
29.宮原と秋田の教育
宮原は1953~54年頃に幾度も秋田を訪れている。彼を招聘したのは、秋田県社会教育課長であった佐藤憲一(後に本荘市長)であった。宮原は秋田に行くたびに、夜が更けるまで佐藤と語りあっていたという。
そして、佐藤憲一は、秋田県連合青年会『秋田の青年』No.4、一九六二(昭和三七)年七月号の巻頭言「戦前の社会教育と戦後の社会教育―社会教育の変遷―」において、社会教育を通した「革新」と「社会改造」、「国民が主体的なものであって、はじめて社会教育は成り立つ」、「社会教育は、内には自己改造があり、外的には社会改造という革新性をもっている。自らが求めることによって相互教育が営まれ、主体と客体が一体化する」、「社会教育はささやかな『たまり場』を出発点とする。そこに生まれる批評精神、善意が社会をつき動かす力になる」と提唱していた*1。
佐藤の「主体と客体の一体化」は、西田、三木、宮原の系譜に位置づけられる観点。
参考:同時代において、大阪では、翌1963年2月に「枚方テーゼ」が提唱された。
その後、宮原は晩年、秋田で過ごし、死去した。
村上正彦「上郷健康文化運動が蒔いた種―「人間ばんざい」30年後の記憶―」『社会教育学研究』第27号、2013年3月参考
30.山田としての継承・発展-アクション・リサーチとして-
社会教育法五十周年と秋田の記念事業
秋田県教育委員会『秋田県の生涯学習・社会教育50年のあゆみ-社会教育法制定50周年に寄せて-』1999年。
社会教育法制定50周年と県の行政が関わって記念したのは、管見ながら、秋田だけであったと思う。
秋田市生涯学習懇談会『すべての市民に学びあうよろこびを-人権尊重と地方分権の中核市・秋田市の生涯学習振興方策-』2000年
それとともに、秋田での「心に刻むアウシュヴィッツ」巡回展(1997年1月)などの平和教育も実践。
30-1.参考:
石田修秋田県生涯学習振興課課長(一九九六年~九八年)は「山田先生とバトルしなければならない」と言ったことがある。
彼は農政出身で保守政治家と繋がりがあった。しかし、部下が上申する私の講演や講習などの企画はそのまま承認していた(私は各種事業で講師となっていた)。
私が「心に刻むアウシュヴィッツ秋田展」を開催した際、彼の「竹山道雄氏のこと」(石田冲秋の俳号で『俳星』一九八四年九月号掲載)を、竹山道雄の「聖書とガス室」のコピーとともに私に提供してくれた。そこで石田は竹山の死への「深い感慨」を述べていることを読み、私は保守主義者が戦争の歴史や現実に迫ることに消極的なのは、死に対して感慨を抱くという、死への美学のためかと考えた。そして、人間にとって確かに美学は重要だが、それと同時に歴史や現実の美化には注意しなければならないと思わされた。
ただし、石田とは常に対話的な関係であった。
小畑の精神が継承されていた。
竹山への批判は、その後『希望への扉』同時代社、二〇〇四年、五一頁以降、二五四頁以降。
その後、戦争の歴史の研究を進め、今では、前とは異なる対話ができると考えている。
30-2.そして、大阪に転任して、
前掲「秋田で鈴木健次郎に学び、大阪で研鑽し、活用」
大阪は「天下の台所」と呼ばれ、また「食いだおれ」は京都の「着だおれ」とともに知られているが、また「京都は大阪の妾」というディスクールもある。
他方、東北の歴史では飢饉が繰り返されていた。単に、発展が後進の地域という理由だけか? 確かに冬は厳しいが、産物は豊富である。
食糧を生産する農民が飢餓に苦しみ、都市に住む者には飢饉がないという、おかしな史実をどう考えるか?!
商都・大阪の功利性、自由、町人文化、自治、特に環濠自治
その中の
先事館
適々斎塾(適塾)
懐徳堂
など
そのような大阪で、幕藩体制を揺るがし、明治維新の先駆け的な働きをなした大塩平八郎。
陽明学の良知、知行合一
大塩の思想と実践は、このような大阪の文化において極めて貴重である。
大塩平八郎の手紙 原本発見 乱の2年前、門人に宛て
2012年10月4日 13時59分(東京新聞)
江戸後期の「大塩平八郎の乱」で知られる大坂町奉行所の元与力大塩平八郎が、乱の二年前に私塾の門人に宛てた手紙の原本が見つかった。学問を志す者の心得を説き、仲秋の月に触れた漢詩も取り上げるなど、儒学者らしい一面を示している。大塩研究が進むことを期待する声も上がっている。(梅村武史)
杏林大総合政策学部の松田和晃(かずあき)教授(58)=日本文化史=が、二十年ほど前に京都市の古書店で入手した資料を、今年に入り整理していて発見。筆跡を鑑定して最終確認した。
手紙は一八三五(天保六)年のものとみられ、日付は八月十六日(旧暦)。門人で徳島藩士の秋田静吉にあてている。九五(明治二十八)年発行の雑誌に手紙が転載されているが、原本の行方は不明だった。
内容は秋田に勉学に励むよう勧め、大阪の塾に立ち寄るよう呼びかけるもの。前夜の十五日、塾生らと仲秋の月を見ながら詠んだとみられる七言絶句の漢詩も添えられている。
「偶会同朋是仲秋
簾(れん)前桂影謾西流 ……」
松田教授によると、志ある者は名月を観賞するときも、ただ眺めて風情を楽しむのとは異なる受け止め方をすべきだとの意味の詩で「世に不満を感じていた大塩の門人への期待が伝わってくる」と指摘する。
手紙の原本発見について、相蘇(あいそ)一弘・元大阪歴史博物館副館長(68)は「雑誌の転載文は誤植が多かった。大塩研究がさらに進む」と評価する。筆まめだった大塩の書簡は二百点弱が知られており、原本が残っているのは約百三十点という。
<大塩平八郎(1793~1837年)> 与力を務める傍ら、儒教の一派である陽明学者として私塾「洗心洞」を開く。38歳で奉行所辞職。天保の飢饉(ききん)翌年の1837年、幕府の腐敗を批判し、乱を起こした。門弟や農民ら300人を引き連れて挙兵、豪商を襲撃したが、密告などもあって失敗、自害した。
30-3.文化、演劇-宝塚歌劇団とわらび座
①宝塚歌劇団
1914年に初の公演。
未婚の女性だけで構成された歌劇団。
阪急電鉄、阪急阪神東宝グループの一部門。
創業者の小林一三『私の行き方-阪急電鉄宝塚歌劇を創った男-』PHP文庫、2006年(初出は2000年)
pp.184ff「清く、正しく、美しく」
国民大衆の「家庭共楽」のための「国民劇」として創業。
p.191「国民のすべてが勤労に従事するのを原則とする」、「労働条件は昼間八時間勤務を原則とすれば、夜間四時間の慰安は娯楽本位である」
p.195「宝塚少女歌劇は艶麗高雅であるとしても、何となく物足りない。グロテスクでない、エロティックでない。若者の血を躍らし心臓を波立たしむる点において、いかにも芸術的圧迫力が乏しい」などの「非難」を承知しているが、「家庭本位」、「娯楽本位」を貫く。
「印象」、心象、その奥底のグロテスクでエロティックな心性を描き出す前衛芸術ではない。「醜は美である」、「受苦の美」、「共苦する美」でもない*1。
客観的な対象を写実するのではなく、芸術家が対象を捉え、主観的な感性や知性に基づく創造力を以て心象を創造し、作品に結実させる。客観と主観の相互作用において、芸術家の主観が前面・全面に打ち出される時、大衆がそれを受け入れるか、否か。その自己表現が広く認められるか、否か。大衆に迎合し、人気を博するために媚びて、自分の考える芸術性を控えるか、否か。
小林は実業家として、大衆を第一に考える。
②わらび座
以下、ウィキペディアより:
1948年7月、日本共産党党員芸術家会議の席上での要請に基づき原太郎により同年8月に東京で創立された海つばめ(第一次)が淵源。1950年原が帰還者楽団に参加することとなり一旦解散したが、1951年に海つばめ(第二次)が日本共産党の文化工作隊として再結成された。翌1952年にはポプラ座と改名し北海道を回るが、秋田県に拠点を移した1953年からは「黄に紅に花は咲かねどわらびは根っ子を誇るもの」ということにちなんで、現在のわらび座と名称を改めた。1971年には「株式会社わらび座」として株式会社化。1990年代には日本共産党の文化工作隊としての側面はなくなっており、以後は劇団・劇場経営のほか、温泉、ホテル事業、地ビール「田沢湖ビール」の製造販売など多角的な経営を行なっている。
2006年4月時点で、秋田県仙北市のたざわこ芸術村に本拠地を置き、劇団員は約200名。本拠地に「わらび劇場」という本格的な常設劇場を持ち、オリジナルミュージカル公演年間250ステージをおこなうほか、7つの公演チームが国内、海外で年間約1200回の公演を行っている。愛媛県東温市にも「坊っちゃん劇場」という拠点劇場を有する。2009年には年間25万人の観客を動員した。
日本では劇団四季や宝塚歌劇団に次ぐ規模の劇団である。
③
1950年代には社会教育の中心たる青年団(会)活動は「やくざ踊り」、学社連携のPTAは「お祭りPTA」と称された(ディスクール)。
ただし、秋田では、
伊藤日出男「戦後の地域文化活動と青年の意識」(秋田大学修士論文、1999年)、及びそれに基づく「初期新制中学校教育の状況と戦後の地域文化運動」『青森県立保健大学紀要』第一巻第一号、2000年3月
民俗芸能の継承、青年の演劇運動、アマチュア劇団「ガン座」の活動が取りあげられている。
これと「わらび座」との直接的な関係までは不詳だが、このような素地、土壌があり、「わらび座」へ。わらび座は、1951年に活動を始め、53年に秋田県田沢湖町に拠点を据えた。
ガン座への入会の動機の中にはわらび座の「ような使命感に満ちた燃ゆる思いの参加とは言い難かった」と語る者もいた(前掲、伊藤修論p.41、「初期新制中学校教育の状況と戦後の地域文化運動」p.10)。
秋田は農業に加えて林業や鉱業もあり、資本主義、近代化、、、
31.大阪で秋田に関して考えることの意義
大阪と秋田での研究や実践を踏まえ、
「食」をめぐり近畿と東北を対比させると、
農村、特に東北地方の飢饉と、大阪の「食いだおれ」、そして京都の「着だおれ」、白米が主食のための「江戸煩い」、「大阪腫れ」=脚気との対比してみると、
作物を生産する農村が飢饉になり、生産せず、消費する都市に飢饉が起きないことに注意!!!
フランスでルソーが「大都会には演劇が必要であり、腐敗せる民には小説が必要である」と指摘したことの意味は深長である*1。この帰結がフランス革命であった。
支配、収奪、搾取、消費、浪費
権力の腐敗、都市の享楽
について考えねばならない。
知行合一、良知を鍵概念とする陽明学を学んだ大塩平八郎の義挙(1837年)は、江戸四大飢饉の天明(1781~89年)の大飢饉の後、天保の大飢饉(1833~39年、1835年から1837年にかけて最大規模化)において実行された。
天明の大飢饉では特に津軽地方が悲惨で、「後見草(のちみぐさ)」によれば、大量の流民が発生し、他領に逃散したが、そこでも食物は得られず、その状況下で死体を食べる者も現れ、人肉を犬の肉と称して売る者さえいたという。
しかし、これに対して以下の資料が伝えるような農民もいたことは重要である。人肉食も、また作物を生産する農民が種籾を残して餓死することも、現象は対極にあるが、いずれも支配や収奪が強力で苛酷であったことを示している。まさに道義は幕藩体制にではなく、大塩たちにあり、歴史はそれを選択し、明治維新に至った。
31-1.資料
①
大塩平八郎の檄文
冒頭「四海困窮せば、天禄永く絶えん、小人に国家を治めしめば、災害並到る……」
②
中田敏「種籾は残った―『ひしぎ申す』―」(一九八〇年九月二十日)
『東北』第16号(中田敏追悼特集)、1984年12月、ガリ版刷りでホチキスで綴じた文献に所収されている。私は秋田大学在職時に入手した。彼の著作集がぶなの木出版から1992年に刊行されているというが未見である。意義が大きいため『社会教育学研究』第18号、2010年4月に以下を掲載した。
……(略)
二、我が家に語り継がれた話
……(略)大飢饉の時代(それが天明か天保かは聞いた様にも思うが今は記憶がない)には、大川筋数ヶ村の束ねをしていた人に良左エ門という人がいたという。
その人が私の祖父の祖父になるのか曾祖父になるのかそこの所も今は定かではないが、その年、田植えの頃に降り出した雨は七月になり、八月を迎えても一向に降りやまず、稲は一尺も伸びぬまま、秋を待つこともなく立ちぐされにくさり始めたという。*1
良左エ門は、此の年もまた村人の半数以上が生き抜けないだろうことを覚悟しながらも、それでも一人でも多くが生き抜くことを祈りながら、残された村中の食べ物を集めてそれを各戸の人数割りに再配分してその年の冬を迎えたという。
此の地は今でも県内一というより、日本有数の豪雪地帯である。私が生まれて昭和の時代を迎えてさへなお、隣を訪ねた人が急の吹雪にまきこまれて村内で死ぬ様なことがそれ程珍しくもなかった所である(私の父も七才の時に、萬(ヨロズ)屋への使いの帰り此の吹雪にまきこまれて家から五分と離れていない所に倒れていたのを運よく見つけられた経験があるという)。
だから雪が降り出すと人々は一歩も外に出ることもなく、ただじっと家の中で息をひそめる様に暮しながらカタ雪*2の季節まで待つのである。
ましてその年は食料が乏しい。乏しいというよりも繰り返す凶作に穀類らしい物はまったくなかったといってもいい。
私の母はよく「凶作三年、大凶作五年」ということを言っていた。つまり「一度凶作になると、その痛手が回復するには三年かかり、大凶作ならば五年はかかる」ということで、その痛手が回復しないうちにまた凶作になれば、生き残れるかどうかはもう神仏の加護を頼むしかない、そんな年の冬越しである。
深い雪の中で人々がどう過ごしていたかは、それぞれに誰もが知らない。それでも三月のカタ雪を迎えると、冬眠のクマが穴から出てくる様に、よろばいながらも何人かの村人が雪の上に出て来た。それぞれに我が家では何人が死んだかを淡々と語りあうと同時に、誰一人顔を見せることもなくなった家を数え上げた。
そんな中に良左エ門の家もあったことに驚いた村人達は、打ちそろって良左エ門家を訪ねた。やがて彼等は、奥の間にきちんとふとんを並べて北枕に横たわる良左エ門家の家族達を見つけた。人々は走り寄った。案じた通り家族の全員が餓死をしていた。それでもただ一人良左エ門に息があり、走り寄った村人達の一人一人の顔を見まわすと嬉しそうににこっと笑い、やがてすさまじい形相になったかと思うと、
「ひしぎ申す。」
とただ一言を叫び、叫ぶと同時に五八才のその命を終えた。
「ひしぎ申す」とは何のことだろう。人々はその意味のわからぬままに、それよりも村オサ(長)を失った事の大きさに打ちひしがれた。やっと冬を生きぬいたとはいえ、たべ物のつきた今を変える手だてが考えられない以上、生き残った人々の何人かはまた春を待たずに死んでゆくだろう。春までは生きたとしても、新しい年の種籾すらないとすれば此の村は死滅するしかあるまい。しかも知れる限り、聞ける限りの土地はすべて此の村と同じ様に苦しんでいる以上、種籾をわけてくれるあてもどこにもない。
今はまず村オサ(長)がいなければ何とも手だてがないと考えた生き残りの村人達は寄々相談して、御蔵入の代官所を通して隣藩の御城下で暮しを立てていた良左エ門の次男を呼び寄せることにした。
こうして春と共に良助は戻って来た。戻って来た彼は取りあえず一家の埋葬をすませると同時に、改めて家中を調べ直して見た。一家中の死を覚悟していたらしい父親が自分に何かを言い残しておかなかっただろうかと考えたからである。
と、驚いたことに、蔵の天井の上にまったく手つかずの四俵もの籾が、
「いざの時の種籾となすほかは、何人といえども手をふれるべからず」
との木札と共に残されていたのである。
早速此の種籾は数ヶ村の生き残った家々に配られて、そのために村はよみがえることができた。
同じ様にその後用意された種籾は、私の祖母(母の母)と叔父(母の弟)とが餓死した明治三九年の大飢饉(此の話はかつて自然保護誌に書いた)にも手つかずに我が家に残されたという。
そして此の「ひしぎ申す」という言葉は、それが言われた本当の意味はわからぬままに、それでも百姓の生き様はどうあるべきかを象徴するものとして長い間村の中に語りつがれ、種籾を残す行為と共に、百姓のたばねを義務づけられてきた我々一族の生き様を指し示すものとして私にまで語りつがれて来たのである。*3
そしてまた、此の「ひしぎ申す」という言葉は、村人のすべての生死を考えないではいられない立場に立たされてきた一人の男が、正にその死を直前にして、我が身を鬼にしても此の飢饉を打ち負かしてやる、という執念をこめての村人への約束であったろうと、我々一族は信じ続けて来たのである。
三、余談
長い間私は、此の“餓死してまで種籾を残した”という家伝には我が身にひき比べて、「そんなことが出来る人間が存在するのだろうか」に(ママ)疑問をもっていた。
ところが最近、私の生まれ育った地域とは遠い北陸のある地域などでも、鎮守の裏山とか、村の裏山などの思いかけず見つかった洞穴などから、三俵、五俵とつまれた江戸時代の籾が一度ならず見つかるという事実を知った。それもやはり飢饉に備えた種籾であり、そしてやはり、これを用意した人(個人か、村の主だった人何人だったかは別として)は、自分が餓死することがあったとしても種籾には手をつけず、生き残った人達のために残そうとしたものが、それを知るすべての人が死んだか、村が全滅したかによって、そういう種籾が用意されていたということも知られぬまま二世紀近くを眠っていたのだろうという推測を聞いて、ようやく私の祖先の生き様も信じることが出来るようになった。*4
……(略)
これを母は「一殺多生の心」だと教えてくれた。
つまり「一殺多生」の「一殺」とは多くの人々を救うために、飢虎の前に身を投げ出した釈迦の様に*5、或いは我が身への食をたってみずから入定することによって、多くの餓死者が出るだろう飢饉の終息を祈った出羽の上人達の様に、常に誰でもない「自分自身を殺す(死ぬ)こと」であって、他人を“暗殺”するための詭弁ではないと。
そして此の母の教えは同時に「自分を殺すことで多くの人々を生かすことが出来る程の人間になれ」ということでもあったし、「そうした死に場所から逃げぬ人間になれ」ということでもあったが、私自身は不敏にして遂にそうした人間からははるかに遠く、従って逃げるも逃げ出さざるも、そうした死に場所からもはるかに遠い境遇に安住したままいたずらに恥多き日々を重ねて来たが、しかし頭の片すみからはとうとう母の声を消し去ることができぬまま今日まで過ごして来た。
最近都会からは、西欧流の生き方に影響された小説家等によって、飢餓の時あたかも「人肉食すらあった」かの様に言われ、テレビで放映されさへもした様だが、「我が身が餓死するとも種籾を残した人々」はもちろん、終生「二本足、四本足は食う物ではない」とトリ肉さへも口にしなかった母など多くの日本の百姓にとっては、若し親子兄弟を食わなければならない程の飢餓に直面したとしたら、その前にみずからを殺すことで「無間の地獄」に落ちることから逃れたであろうと確信する。
そして今、我々の自然保護運動が同時に常に「人間の心の復活を求める運動でもある」とあえて言うならば、その求める人間の心は常に「我が身が餓死しても種籾を残す日本人の心に復活」であって、「緊急避難に名をかりて他人を見すてる(犠牲にする)ことが許される精神」の導入ではないし、まして若者達をはやし立てて反体制の運動にかり立てながら、我が身は常に体制の作り上げた暮しの中にひたりつつ、いつともなくその論理をさへ百八十度も転回させる評論家の様であってはならないと考える。
……(略)
<注>
*1
2009年、気象庁は東北地方の梅雨明け宣言を行わなかった(東北北部は6年ぶり5回目)。さらに、16年前にはやはり梅雨明けがないばかりか、記録的な冷夏で米の収穫量が少なく「一九九三年米騒動」、「平成の米騒動」が起きたことは参考になる。
ただし、バブル以後で、米不足対策のため、米国、中国、タイから米を輸入したが(特にタイから大量輸入)、タイ政府が保管していた古米、古古米(これは日本側の要請に沿ったもの)、品質管理の悪さ(カビ臭い、ネズミの死骸や錆び釘が混ざっていた等)、インディカ米とジャポニカ米の食感の違い、それを取りあげた報道の影響(報道被害、風評被害)、さらに、当初の予測よりも米不足にはならなかったため、タイ米が余り、しかも翌年から新米が流通し始めると販売の可能性がますます低くなり、結局、タイ米は家畜の餌に回され、それでも処理しきれず、最終的には産業廃棄物(食品廃材)として処理されたり、不法投棄された。ところが、当時の世界の貿易量の約20%に当る米を日本が調達したため、国際的な価格高騰を招き、タイ国内でも米価が急騰し、タイ国民が悪影響を受け、さらに、世界全体では飢餓に苦しむ人は多く、日本の対策や結果について批判が出された。
*2
気温の上昇につれて、積もっていた雪の表面が溶け、その水分が夜半から明け方にかけて冷やされ、積雪の上に氷の層を形成する。つまり、まだ氷が溶けない朝の時間帯は、雪が固くなり、従って動きやすくなる。つまり、「カタ雪」になれば、その時間帯は作業がしやすく、新たに生産活動を再開できる。
*3
「ひしぎ申す」について、「引き継ぎ申す」と解釈できると考える。東北地方の方言では「し」と「す」の発音が極めて似ていて、元々「ひしぎ」と言うつもりなら「ひすぎ」という発音になっただろう。臨終にあり「ひきつぎ」の「きつ」がかすれて「し」になり、「ひしぎ」と発音されたのではないだろうか。そして、これは種籾の引き継ぎを頼むという意味になり、その状況に合致している。
*4
群馬県で生まれ育った私も子供の頃に「種籾には死んでも手をだしちゃなんねぇ」という言葉を耳にした。家は農家ではなかったが、食事では米一粒も残さず食べろと躾られた。そのためか、今でも食事を残すことに強い罪悪感を覚える。
*5
釈迦は飢えた虎の親子のために身を投げ出したと伝承されている。
<共同学習2008>
Q:
昔の飢饉は、今の自分と関係ない。
山田:
直接は関係ないが、自分は父と母から生まれ、その父や母は祖父母から・・・
飢饉があった時代の人々がいなければ、今の自分はいない。
生命の連鎖。そしてライフサイクルと世代のサイクル(エリクソン)
これを忘れれば「根無し草」になり、アイデンティティの「土壌」、基盤が損なわれる。
<共同学習・補充2009>
“飢餓人口”10億人超える
NHK 2009年6月20日
国連は、世界的な経済危機を受けて、飢えに苦しむ人が、ことし初めて世界全体で10億人を超え、過去最悪になるとの見通しを示しました。これは、FAO=国連食糧農業機関が19日に発表したものです。……
公民館と公民館主事
鈴木健次郎が考え、実践した公民館、公民館委員会、公民館主事、
それが、小畑知事の秋田県政と民衆教育主事へと展開(後述)
注意点:
横山・小林編『公民館史資料集成』の末本誠・上野景三執筆「特論」766頁では、
下村・鈴木を寺中の「ブレーン」と位置づけているが、鈴木の出処進退の実践、宮原との対談などを踏まえれば、誤りである。
なお、同書の275頁から276頁にかけて寺中氏は「公民館構想のころ」という文章で「もとは内務省の採用で、(文部省に移る-引用者注)数年前までは地方庁に勤務し、地方課で自治行政の監査や選挙の事務なども担当し、選挙粛清運動(略)などに若い情熱と生き甲斐を傾倒した時期もあり(略)下村湖人氏の「煙仲間」の説や「次郎物語」にも感動し、また青年の父といわれた田沢義鋪氏にもひそかに私淑するところがあった。」と述べているが、やはり上記、特に公民館委員会の廃止を考えれば、官僚の釈明と言わざるを得ない。
『公民館史資料集成』の記述は、「寺中構想」という用語に関わり、注意すべきである。
26-1.宮原の実践論、鈴木の公民館論
宮原の「最も実践的な末端」は、その脈絡、発展に位置づけられる。
また戦後、地域の民主主義(基層の民主主義)の場として公民館の普及に努めた鈴木健次郎の「白鳥芦花に入る」の実践思想は、キリスト教的な博愛精神や日本的で禅的な精神、さらに「秘すれば花」(世阿弥)的な実践感覚もあった。
宮原・鈴木対談「社会教育法十周年と社会教育の現実」(『月刊社会教育』1959年6月号。『鈴木健次郎全集』第2巻、秋田青年会館、1974年に収録)
「社会教育法でつぶされた公民館委員会」の小見出しから
公民館委員の公選制→任命制
教育委員会法での教育委員の公選制→失効で任命制(1956年)
「最も実践的な末端」からの下意上達、ボトムアップの弱体化。社会の最基層における民主主義、国家レベルで考えるのが難しい者でも判断できる民主主義が消滅。
教育の国家統制の強化。
26-2.公民館
基層の草の根民主主義のための拠点として
そこにおける「対話」、合意形成の場として
所謂「市町村主義」の施設として(市は大都市でない)、
民主主義の基盤としての草の根民主主義、
これは「最も実践的な末端」(宮原誠一)に通じる。
また、小中高の班活動、学級活動、ホーム・ルーム、特別活動等の発展として
「市町村主義」のため、公民館は、大都市の東京都区内や大阪・京都・横浜市内にはない。
大都市の関連施設は、生涯学習センター、社会教育館など名称は様々。
そして、「市町村主義」と国(国家、祖国、生国)の関連では、
国家主義に向かわずに、上意下達と下意上達、「一即多、多即一」の弁証法が重要である。
それは「矛盾」だが、現実は矛盾で、それが発展の契機・力学(モメント)になる。
「絶対矛盾的自己同一」(西田)
27.「鈴木イズム」
27-1.「鈴木イズム」との出遭い
鈴木健次郎の思想と実践は「鈴木イズム」と呼ばれる。
それは、田澤義鋪(青年団の父と呼ばれる)、下村湖人の系譜に位置づけられ、さらに宮原誠一へと展開されている。私は、その継承・発展に努める。
私は、秋田で開催された社会教育法50周年記念の講演で「寺中構想」を話したところ、参加者から鈴木健次郎も紹介すべきだとの指摘を受けた。その時は、鈴木に関して十分に知らず、その後、勉強し、「寺中構想」より、こちらを伝えるべきだと考えを改めた。
参考文献:
鈴木文庫懇談会編『鈴木健次郎集』第1巻、1974年
--『鈴木健次郎集』第2巻、1974年
--『鈴木健次郎集』第3巻、1976年
小畑勇二郎『秋田の生涯教育』全日本社会教育連合会、1979年
秋田県生涯教育推進本部事務局『秋田県の生涯教育-10年の軌跡-』1980年
鈴木健次郎記念会『鈴木健次郎の生涯-青少年の足を洗う-』秋田県青年会館、1990年
宮原・鈴木の対談「社会教育法十周年と社会教育の現実」初出は『月刊社会教育』1959年6月号、『鈴木健次郎全集』第2巻、秋田青年会館、1974年に収録、pp.306-314
山田正行「学習者の足を洗う社会教育実践を目指して-「鈴木イズム」の継承と発展」『社会教育-来し方、行く末-秋田県社会教育委員連絡協議会結成30周年記念誌』2002年1月。
同「足を洗う社会教育実践」『あきた青年広論』第87号、2005年1月
同「提言・田口清克氏を追悼して・「鈴木イズム」の実践」『あきた青年広論』第95号、2008年12月
同「秋田で鈴木健次郎に学び、大阪で研鑽し、活用」『あきた青年広論』第107号、2015年5月
27-2.
鈴木イズムの代表的な箴言、鍵概念
「白鳥蘆花に入る」
「学習者の足を洗う」
「汝、何のためにそこにありや」
「非凡は平凡の積み重ね」
「地下水の働き」
「煙仲間」
それぞれは密接に連関して、実践に結実している。
全体を通じて、己を低くして,目立たさないという意味が貫かれている。
それは宮原の「最も実践的な末端」の立場に通じる。
このような実践者として「公民館主事」、そして「社会教育主事」を考えることが重要である。
参考1:
「社会教育は、段取り八分だ!」
一九八〇年代後半、バブルの時代、群馬県高崎市で私の講演を聞いた社会教育主事が「社会教育は、段取り八分だ!」と語った。
その後、秋田で「鈴木イズム」を学び、これを想い出した。
参考2:「秘すれば花」
さらに、日本の伝統に引きつけて考えると、
世阿弥の「秘すれば花」(『風姿花伝(花伝書)』より)を想起する。
参考3:
白土三平の『サスケ』、『忍者武芸帳-影丸伝-』、『カムイ伝』、『カムイ外伝』などを愛読した私は、「鈴木イズム」は忍びの道にも通じると考えた。
以下のような記述もある。
「伊賀は四方を山で囲まれた高原盆地で、奈良や京都から離れているに拘らず、独特な文化を育んできた地方です。東のかた、うねうねとつづく丘陵には、古墳群が望まれ、西は梅で名高い月ヶ瀬から、柳生を経て、笠置へ越える山なみ。北は甲賀から信楽へぬける峠がつづき、南は室生、榛原、長谷を経て、大和の桜井へ出る伊勢街道がひらけています。何れも木津川、伊賀川、初瀬川などにそった深い渓谷で、世間からまったく隔絶されたこのような所に、特殊な文化が芽ばえたのは、故なきことではないと思います。
世阿弥ばかりでなく、芭蕉も伊賀の出身でした。……忍術が、ここで発生したのは読者もご承知のことでしょう。能の幽玄、俳句の風雅、隠微な忍者の伝統には、それぞれ別の道を辿ったといえ、何かしら濃い血のつながりが感じられます。……観阿弥も、伊賀の服部氏の一族でした。服部氏は後世の服部半蔵などで知られる如く、忍術の方では著名な家柄です。観阿弥が忍者だったとは申しませんが、そういう雰囲気の中で育ったことは確かです。観阿弥の母、つまり世阿弥の祖母に当たる人は、楠木正成の姉で、したがって南朝とは切っても切れぬつながりがあったのです。正成が多くの忍者を用いたことは有名で、神出鬼没の彼自身も、いわば忍者の親方のような人物だったかも知れません。」*1
引用文中で「能の幽玄、俳句の風雅、隠微な忍者の伝統」とあるが、忍者をモチーフにした作品は多く、今でも人気は根強いことを考えると、白土が描き出した最下層の戦士、その葛藤に注目すべきと考える。
27-3.「白鳥蘆花に入る(白鳥入芦花)」
① 下村湖人『次郎物語』第三部、八「白鳥会」、九「自己を掘る」より。
「芦が密生していて、銀色の穂波がまばゆいように陽に光っている。一羽の真白な鳥が、ふわりと青空を舞いおりて、その穂波に姿をかくした光景」
「すると、白鳥芦花に入るっていうのは、誠という意味ですか。」
「そう言ってしまっても、いけないでしょうけれど、煎せんじつめると、そうなるかも知れませんわ。」
「どうして、そうなるんです。」
「そこを次郎さんが自分で考えてみるといいわ。」
「真白な鳥が、真白な芦原の中に舞いこむ、すると、その姿は見えなくなる。しかし、その羽風のために、今まで眠っていた芦原が一面にそよぎ出す、というのだ。お互いに、この白鳥の真似がしてみたいものだね。しかし、なかなかむずかしいぞ。それがほんとうに出来るまでには、よほど心を練らなくちゃならん。自分の正しさに捉われて、けちな勝利を夢みているようでは、とても白鳥の真似は出来るものでない。良寛のような人でも、「千とせのなかの一日なりとも」と歌っているくらいだからね。」
これらとともに良寛や「まこと」についても記述されており、その精神は禅的であることが分かる。
「まこと」は誠、信、真、実、慎、允など多くの漢字の意味を集約していると言える。
② 下村~鈴木
「…白い鳥が白い蘆の花の中に入ったというのです。鳥の姿が同じ白色なので、その姿はさだかでないが、しかし鳥の入ったことによって蘆花が、一波が万波をよぶように動き出したというのであります。わたくしは公民館の町村社会における姿をこのように解したい。」(鈴木『郷土自治建設と公民館』1950年)
鈴木は「下村湖人追悼」で「白鳥入芦花」とともに「全体に則して独自に生きる」を提起。
「昭和のはじめ、青年団に一緒に勤めていた頃、よく先生のお宅をお訪ねした。先生のあたたかい家庭の雰囲気の中で、いろいろと教えていただいたことが、わたくしが終戦後公民館の仕事にたずさわるようになって、公民館の生命をつくるうえに、大きな力となったことであった。公民館が今日単なるバタ臭い文化施設にならないで、よく日本の風土の中に生きたのも、先生のよくいわれた『白鳥入芦花』の精神の展開であったとさえ思っている。先生がよく『全体に則して独自に生きる』といわれたが、公民館の郷土におけるあり方を具体化するうえにも、指導の光りであった。」*1
③ 実践の場としての公民館
「白鳥芦花に入る」
鈴木は、当時、NHKで『次郎物語』が放送されていたことを受けて執筆したと説明した上で、
「全郷土民は公民館を通して、郷土の平和と発展のために、それぞれの正しい立場を理解し努力すべきだと説いたのである。」
と述べている*2。
また、
「町村」の公民館を論じて「土地の人々の要求をみたす施設内容を持たねばならぬ」、そして「総合的機能」という二点を提示し、「白鳥入芦花」を説き、「総合は支配ではない。全体に則して独自に生きる」と述べている*3。
ここでも「全体に則して独自に生きる」が提起されている。
それは、「一即多、多即一」の弁証法の、下村=鈴木的な表現である。
④ 鈴木~小畑
生涯教育推進体制をいち早く整備した秋田県の小畑勇二郎知事は、鈴木への1970年8月30日の「弔辞」で「よく下村湖人の『白鳥蘆花に入る』という言葉を使っておられた」と述べている。小畑勇二郎顕彰会編『大いなる秋田を-『小畑勇二郎の生涯』補遺選-』2001年、p.390
参考、発展:
「白鳥入芦花」に「白鳥の歌」を加味
「白鳥入芦花」は禅的な精神を基調としているが、それを踏まえて、私はヘレニズム的「白鳥の歌」を加味して、精神的な世界を豊にしようと試みる。
古代ギリシャでは、白鳥は音楽、予言、神託の神であるアポロンの鳥とされ、白鳥自身も予知の力を備えており、死を迎えるとき、最後にひときわ来世で幸福になることを喜び、歌うと伝えられていた。
ソクラテスは「白鳥はいつも歌いつづけてきたのだが、自分が死ななければならないことを知ると、そのときはいつもよりもっとさかんに、もっと美しく歌うものだ。主なる神のみもとに行こうとしているのを喜んでね」と述べている(田中・池田訳、一六四頁)。
そして、シベリウスの「トゥオネラの白鳥」の幻想的で悲愴な楽想は、その音楽的な表現である。
なお、ソクラテスは「真に哲学すること」は「真の意味で平然として死ぬことを練習することに他ならない」とも述べており、如何に生きるかは如何に死ぬかということであり、如何に死ぬかは如何に生きるかということであるという死生観を有していた(田中・池田訳、一五六頁)。
27-4.学習者の「足を洗う」精神
鈴木が秋田高校に校長として赴任し、抱負を教職員に述べたとき「青少年の指導とは青少年の足を洗うことだ」と語った*1。そして、この「青少年の指導とは青少年の足を洗うことだ」という指導観は、「田沢義鋪の言葉に基づくものであるが、聖書の中のキリストが弟子たちの足を洗うところからきているもので、自己を捧げて他を生かす献身的な愛情なのである」と述べられている*2。
キリスト教信仰に関しては、鈴木は、1929年12月24日、カトリック本郷教会で、田中耕太郎(当時東京帝国大学教授、後に文部大臣、最高裁判所長官)を代父にして受洗した。その後、確かに鈴木は「戦争中、靖国神社の前で遺族がひれ伏しているのを見て神の存在が信じられなくなり、教会にも行かなくなった」と語ったと書かれているが*3、しかし、キリスト教的な精神は深い次元で存続していたと言える。
参考:
ヘブライズム、聖書より
「彼らの足を洗い、己が上衣を着、再び席につきて後、言い給う。我が汝らに為したることを知るか。汝ら我を師または主ととなう。しか言うは正しい。我はこれなり。我は師または主なるに、なお汝らの足を洗いたれば、汝らも互いに足を洗うべきなり。我、汝らに模範を示せり。我が為しし如く、汝らも為さんためなり」(「ヨハネ福音書」13章12節)
「食卓につく者と仕うる者とは、いずれが大なるか。食事の席につく者ならずや。されど我は汝らのうちにて仕うる者のごとし」(「ルカ福音書」22章27節)
「種を蒔く者が刈り入れる者と共に喜ぶのである。 このことにおいて、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。」(「ヨハネ福音書」四章三六~三七節)。
イエスは、「ヨブ記」三一章八節や「ミカ書」六章一五節に記されている、自分の苦労が報われないという意味で使われていた「ことわざ」を発展させた。
「地の塩」であってこそ「世の光」となる。(『アイデンティティと時代』p.184で言及)
教える者が身を低くする。
「汝自身を知れ」
古代ギリシャのデルポイのアポロン神殿の入口に刻まれた箴言であり、ソクラテスの産婆術、問答法とともに意義を考える。
聖書「マタイ福音書」7章、「山上の垂訓」の章句。
「自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」
マルクス「教育者自身が教育されなければならない」(フォイエルバッハに関するテーゼ・第三)
教育者と学習者、それぞれにおける相互教育、そして自己教育、自己分析。
→パウロ・フレイレの解放の教育学
「対話」と「意識化」、「批判的自省」
「意識化」の原語のポルトガル語のconscientizaçãoは「良心の覚醒」や「善悪の自覚」という「すぐれて倫理的な意味をあわせもっており、そこには神にたいする人間の関係が暗黙のうちに前提とされている。」*1
フレイレは「キリスト教徒とマルクス主義者は、部分的にあるいは全体的に私と見解を異にするとしても、最後まで読みつづけてくれるだろう、と私は確信している」*2
また彼は「回心(conversion)」*3も用いている。
解放の教育学は解放の神学と連動していた。
27-5.「汝、何のためにそこにありや」
鈴木は秋田高校で、これを高校生に語り伝えた。
それを聞いた時は「何だか分からなかったが、社会教育で働くうちに、分かるような気がしてきた」と、秋田県生涯学習課課長はじめ数人から聞いた(私が秋田に在住していた1990年代から2003年までの間)
先2013:「汝、何のためにそこにありや」は、自分にとって意味のある人生、生きる意味、永遠の課題、無限の営為である。
山田:アイデンティティへの問いかけであり、それを「無限の営為」に結びつけたのは、パスカル「人間が無限に人間を超えることを学べ(apprenez que l'homme passe infiniment l'homme)」(『パンセ』434)を思わされた。
27-6.「煙仲間」の精神と実践
かつて村人や連中が囲炉裏で輪=和になり、村のため、みなのためにと熱く語り合い、散会した後、囲炉裏の火は消え、煙が昇るだけになっても、各人の心の中に熱い炎は燃え続け、それが弱くなる頃、再び輪=和になり、熱く語り合い、再び炎を燃え上がらせるという情景を思わされる。
また、「煙」には、かつて軍国主義で「一億火の玉」のスローガンのように、熱く燃えあがった集団心理に対する「秘すれば花」的な対置も考えられる。
サークル、共同学習、共同研究の日本的な展開
→課題研究、ゼミなどで
27-7.鈴木の思想と実践(文部省から自治体、民間、そして秋田の高校へ)
鈴木健次郎は「社会教育」や「公民館」を提唱しただけでなく、社会教育法が一九四九年に制定され、これからその業績に立ってという段階において、一九五一年に文部省を退いた。そして、福岡県の教育行政、民間放送、秋田県の高校で実践した。
一九五一年六月一日付で文部省から福岡県教育委員会社会教育課に転出したことを「文部省で築きあげた公民館理論を現場で実証」したと記されている*1。
鈴木は、その後一九五八年八月に福岡県教育委員会を退職し、日本教育テレビ(現テレビ朝日)に入社し、一九六三年四月には秋田高校校長となり、文部省には戻っていない。
それは「白鳥入芦花」、「地下水の働き」の精神を身を以て実践したことである。
宮原誠一の「最も実践的な末端」に通じる。
知行合一、言行一致である。
<共同学習>
先2011:カウンセリングには、「足を洗う」という精神に近いものがある。
先2012:「白鳥入芦花」は、イソップの寓話「北風と太陽」のようだ。
先2013:「花よりも、花を咲かせる土になれ」(山下智茂星稜高野球部元監督)。
先2014:「縁の下の力持ち」
先2014:白鳥は優雅に泳いでいるが、水面下で足をせわしなく一生懸命に動かしている。
「地下水の働き」に通じる。
28.秋田における小畑県政と民衆教育主事
生涯教育振興のために、英国、仏国、米国の動向を紹介する中で、仏国の「アニマトゥール」を「いわゆる指導主事(民衆教育主事)」と紹介している。
「アニマシオン」は「活性化」に類似した実践である。
しかも、詰め込みの「銀行型」教育(フレイレ)ではなく、主体的に学習し、摂取して、秋田の現実に即して「民衆教育主事」として推進した。
1972年11月10日に秋田県生涯教育推進集会が開催された。
これは、臨教審(後述)が「生涯学習」を提唱する十年以上も前のことである。
<文献>
小畑勇二郎「七十年代の教育を考える-生涯教育体系の確立を-」(1970年9月7日、秋田青年会議所主催の講演会の要旨)小畑勇二郎顕彰会編『大いなる秋田を-『小畑勇二郎の生涯』補遺選-』2001年、pp.139ff。及び小畑勇二郎『秋田の生涯教育』全日本社会教育連合会、1979年、pp.24-26。
なお、前者『大いなる秋田を-『小畑勇二郎の生涯』補遺選-』は、秋田県連合青年会事務局長の田口清克氏から贈られた。
『秋田県の生涯教育―10年の足跡―』の「生涯教育奨励員」の章では、以下のように述べられている*1。
「フランスに、アニマトールとよばれる人達がいる。しいて日本流に訳せば『民衆教育主事』というところかもしれない。(略)アニマトールとは、文字通り文化活動団体の自発性ないし、自治的精神を尊重しながら、学習に“活気を与える”ものとしての役目をになっている。(略)フランスの例であり、そのまま本県にあてはまるのでは勿論ない。要は、従来の指導者の概念やイメージを払しょくして、生涯教育の推進に新しいタイプの指導者が必要であるということである。」
前掲『大いなる秋田を-『小畑勇二郎の生涯』補遺選-』p.139。
小畑は、ソ連を視察し、特に幼児教育を中心に、事前にクループスカヤ(レーニンの妻)の「本を読んで、たいへん感激し」た。
保守県政でソ連、クループスカヤの評価。アラゴンとともに、多角的に考えるべき。
前掲『秋田の生涯教育』の扉には「学ぶとは、誠を胸に刻むこと 教えるとは、ともに希望を語ること」が掲げられている。これは引用ではないため典拠は記されていないが、作家で共産党員のルイ・アラゴンの詩句であり(大島博光訳『フランスの起床ラッパ』新日本出版社、1980年、新日本文庫)、それが保守的とされている秋田の知事である小畑の著書の扉に使われたことは注目すべきである。
現実は多面的で複雑である。
参考:生涯教育原論、『アイデンティティと時代』のエピグラフやp.173。
さらに『平和教育の思想と実践』第二章
前掲『大いなる秋田を-『小畑勇二郎の生涯』補遺選-』pp.148-150。
生涯教育についてフランス語のeducation permananteと英語のlifelong educationを踏まえて受けとめ、さらに日本の「教育」と比較し、「引き出し、伸ばそうとする考え方」と「受ける人の意志にかかわりなく上から与え、外から働きかけるというニュアンス」の相違を指摘し、そして先述の「アニマトゥール、いわゆる指導主事(民衆教育主事)」について述べている。
同前、p.390では
鈴木健次郎を追悼し「白鳥蘆花に入る」の精神を顕彰している。
29.宮原と秋田の教育
宮原は1953~54年頃に幾度も秋田を訪れている。彼を招聘したのは、秋田県社会教育課長であった佐藤憲一(後に本荘市長)であった。宮原は秋田に行くたびに、夜が更けるまで佐藤と語りあっていたという。
そして、佐藤憲一は、秋田県連合青年会『秋田の青年』No.4、一九六二(昭和三七)年七月号の巻頭言「戦前の社会教育と戦後の社会教育―社会教育の変遷―」において、社会教育を通した「革新」と「社会改造」、「国民が主体的なものであって、はじめて社会教育は成り立つ」、「社会教育は、内には自己改造があり、外的には社会改造という革新性をもっている。自らが求めることによって相互教育が営まれ、主体と客体が一体化する」、「社会教育はささやかな『たまり場』を出発点とする。そこに生まれる批評精神、善意が社会をつき動かす力になる」と提唱していた*1。
佐藤の「主体と客体の一体化」は、西田、三木、宮原の系譜に位置づけられる観点。
参考:同時代において、大阪では、翌1963年2月に「枚方テーゼ」が提唱された。
その後、宮原は晩年、秋田で過ごし、死去した。
村上正彦「上郷健康文化運動が蒔いた種―「人間ばんざい」30年後の記憶―」『社会教育学研究』第27号、2013年3月参考
30.山田としての継承・発展-アクション・リサーチとして-
社会教育法五十周年と秋田の記念事業
秋田県教育委員会『秋田県の生涯学習・社会教育50年のあゆみ-社会教育法制定50周年に寄せて-』1999年。
社会教育法制定50周年と県の行政が関わって記念したのは、管見ながら、秋田だけであったと思う。
秋田市生涯学習懇談会『すべての市民に学びあうよろこびを-人権尊重と地方分権の中核市・秋田市の生涯学習振興方策-』2000年
それとともに、秋田での「心に刻むアウシュヴィッツ」巡回展(1997年1月)などの平和教育も実践。
30-1.参考:
石田修秋田県生涯学習振興課課長(一九九六年~九八年)は「山田先生とバトルしなければならない」と言ったことがある。
彼は農政出身で保守政治家と繋がりがあった。しかし、部下が上申する私の講演や講習などの企画はそのまま承認していた(私は各種事業で講師となっていた)。
私が「心に刻むアウシュヴィッツ秋田展」を開催した際、彼の「竹山道雄氏のこと」(石田冲秋の俳号で『俳星』一九八四年九月号掲載)を、竹山道雄の「聖書とガス室」のコピーとともに私に提供してくれた。そこで石田は竹山の死への「深い感慨」を述べていることを読み、私は保守主義者が戦争の歴史や現実に迫ることに消極的なのは、死に対して感慨を抱くという、死への美学のためかと考えた。そして、人間にとって確かに美学は重要だが、それと同時に歴史や現実の美化には注意しなければならないと思わされた。
ただし、石田とは常に対話的な関係であった。
小畑の精神が継承されていた。
竹山への批判は、その後『希望への扉』同時代社、二〇〇四年、五一頁以降、二五四頁以降。
その後、戦争の歴史の研究を進め、今では、前とは異なる対話ができると考えている。
30-2.そして、大阪に転任して、
前掲「秋田で鈴木健次郎に学び、大阪で研鑽し、活用」
大阪は「天下の台所」と呼ばれ、また「食いだおれ」は京都の「着だおれ」とともに知られているが、また「京都は大阪の妾」というディスクールもある。
他方、東北の歴史では飢饉が繰り返されていた。単に、発展が後進の地域という理由だけか? 確かに冬は厳しいが、産物は豊富である。
食糧を生産する農民が飢餓に苦しみ、都市に住む者には飢饉がないという、おかしな史実をどう考えるか?!
商都・大阪の功利性、自由、町人文化、自治、特に環濠自治
その中の
先事館
適々斎塾(適塾)
懐徳堂
など
そのような大阪で、幕藩体制を揺るがし、明治維新の先駆け的な働きをなした大塩平八郎。
陽明学の良知、知行合一
大塩の思想と実践は、このような大阪の文化において極めて貴重である。
大塩平八郎の手紙 原本発見 乱の2年前、門人に宛て
2012年10月4日 13時59分(東京新聞)
江戸後期の「大塩平八郎の乱」で知られる大坂町奉行所の元与力大塩平八郎が、乱の二年前に私塾の門人に宛てた手紙の原本が見つかった。学問を志す者の心得を説き、仲秋の月に触れた漢詩も取り上げるなど、儒学者らしい一面を示している。大塩研究が進むことを期待する声も上がっている。(梅村武史)
杏林大総合政策学部の松田和晃(かずあき)教授(58)=日本文化史=が、二十年ほど前に京都市の古書店で入手した資料を、今年に入り整理していて発見。筆跡を鑑定して最終確認した。
手紙は一八三五(天保六)年のものとみられ、日付は八月十六日(旧暦)。門人で徳島藩士の秋田静吉にあてている。九五(明治二十八)年発行の雑誌に手紙が転載されているが、原本の行方は不明だった。
内容は秋田に勉学に励むよう勧め、大阪の塾に立ち寄るよう呼びかけるもの。前夜の十五日、塾生らと仲秋の月を見ながら詠んだとみられる七言絶句の漢詩も添えられている。
「偶会同朋是仲秋
簾(れん)前桂影謾西流 ……」
松田教授によると、志ある者は名月を観賞するときも、ただ眺めて風情を楽しむのとは異なる受け止め方をすべきだとの意味の詩で「世に不満を感じていた大塩の門人への期待が伝わってくる」と指摘する。
手紙の原本発見について、相蘇(あいそ)一弘・元大阪歴史博物館副館長(68)は「雑誌の転載文は誤植が多かった。大塩研究がさらに進む」と評価する。筆まめだった大塩の書簡は二百点弱が知られており、原本が残っているのは約百三十点という。
<大塩平八郎(1793~1837年)> 与力を務める傍ら、儒教の一派である陽明学者として私塾「洗心洞」を開く。38歳で奉行所辞職。天保の飢饉(ききん)翌年の1837年、幕府の腐敗を批判し、乱を起こした。門弟や農民ら300人を引き連れて挙兵、豪商を襲撃したが、密告などもあって失敗、自害した。
30-3.文化、演劇-宝塚歌劇団とわらび座
①宝塚歌劇団
1914年に初の公演。
未婚の女性だけで構成された歌劇団。
阪急電鉄、阪急阪神東宝グループの一部門。
創業者の小林一三『私の行き方-阪急電鉄宝塚歌劇を創った男-』PHP文庫、2006年(初出は2000年)
pp.184ff「清く、正しく、美しく」
国民大衆の「家庭共楽」のための「国民劇」として創業。
p.191「国民のすべてが勤労に従事するのを原則とする」、「労働条件は昼間八時間勤務を原則とすれば、夜間四時間の慰安は娯楽本位である」
p.195「宝塚少女歌劇は艶麗高雅であるとしても、何となく物足りない。グロテスクでない、エロティックでない。若者の血を躍らし心臓を波立たしむる点において、いかにも芸術的圧迫力が乏しい」などの「非難」を承知しているが、「家庭本位」、「娯楽本位」を貫く。
「印象」、心象、その奥底のグロテスクでエロティックな心性を描き出す前衛芸術ではない。「醜は美である」、「受苦の美」、「共苦する美」でもない*1。
客観的な対象を写実するのではなく、芸術家が対象を捉え、主観的な感性や知性に基づく創造力を以て心象を創造し、作品に結実させる。客観と主観の相互作用において、芸術家の主観が前面・全面に打ち出される時、大衆がそれを受け入れるか、否か。その自己表現が広く認められるか、否か。大衆に迎合し、人気を博するために媚びて、自分の考える芸術性を控えるか、否か。
小林は実業家として、大衆を第一に考える。
②わらび座
以下、ウィキペディアより:
1948年7月、日本共産党党員芸術家会議の席上での要請に基づき原太郎により同年8月に東京で創立された海つばめ(第一次)が淵源。1950年原が帰還者楽団に参加することとなり一旦解散したが、1951年に海つばめ(第二次)が日本共産党の文化工作隊として再結成された。翌1952年にはポプラ座と改名し北海道を回るが、秋田県に拠点を移した1953年からは「黄に紅に花は咲かねどわらびは根っ子を誇るもの」ということにちなんで、現在のわらび座と名称を改めた。1971年には「株式会社わらび座」として株式会社化。1990年代には日本共産党の文化工作隊としての側面はなくなっており、以後は劇団・劇場経営のほか、温泉、ホテル事業、地ビール「田沢湖ビール」の製造販売など多角的な経営を行なっている。
2006年4月時点で、秋田県仙北市のたざわこ芸術村に本拠地を置き、劇団員は約200名。本拠地に「わらび劇場」という本格的な常設劇場を持ち、オリジナルミュージカル公演年間250ステージをおこなうほか、7つの公演チームが国内、海外で年間約1200回の公演を行っている。愛媛県東温市にも「坊っちゃん劇場」という拠点劇場を有する。2009年には年間25万人の観客を動員した。
日本では劇団四季や宝塚歌劇団に次ぐ規模の劇団である。
③
1950年代には社会教育の中心たる青年団(会)活動は「やくざ踊り」、学社連携のPTAは「お祭りPTA」と称された(ディスクール)。
ただし、秋田では、
伊藤日出男「戦後の地域文化活動と青年の意識」(秋田大学修士論文、1999年)、及びそれに基づく「初期新制中学校教育の状況と戦後の地域文化運動」『青森県立保健大学紀要』第一巻第一号、2000年3月
民俗芸能の継承、青年の演劇運動、アマチュア劇団「ガン座」の活動が取りあげられている。
これと「わらび座」との直接的な関係までは不詳だが、このような素地、土壌があり、「わらび座」へ。わらび座は、1951年に活動を始め、53年に秋田県田沢湖町に拠点を据えた。
ガン座への入会の動機の中にはわらび座の「ような使命感に満ちた燃ゆる思いの参加とは言い難かった」と語る者もいた(前掲、伊藤修論p.41、「初期新制中学校教育の状況と戦後の地域文化運動」p.10)。
秋田は農業に加えて林業や鉱業もあり、資本主義、近代化、、、
31.大阪で秋田に関して考えることの意義
大阪と秋田での研究や実践を踏まえ、
「食」をめぐり近畿と東北を対比させると、
農村、特に東北地方の飢饉と、大阪の「食いだおれ」、そして京都の「着だおれ」、白米が主食のための「江戸煩い」、「大阪腫れ」=脚気との対比してみると、
作物を生産する農村が飢饉になり、生産せず、消費する都市に飢饉が起きないことに注意!!!
フランスでルソーが「大都会には演劇が必要であり、腐敗せる民には小説が必要である」と指摘したことの意味は深長である*1。この帰結がフランス革命であった。
支配、収奪、搾取、消費、浪費
権力の腐敗、都市の享楽
について考えねばならない。
知行合一、良知を鍵概念とする陽明学を学んだ大塩平八郎の義挙(1837年)は、江戸四大飢饉の天明(1781~89年)の大飢饉の後、天保の大飢饉(1833~39年、1835年から1837年にかけて最大規模化)において実行された。
天明の大飢饉では特に津軽地方が悲惨で、「後見草(のちみぐさ)」によれば、大量の流民が発生し、他領に逃散したが、そこでも食物は得られず、その状況下で死体を食べる者も現れ、人肉を犬の肉と称して売る者さえいたという。
しかし、これに対して以下の資料が伝えるような農民もいたことは重要である。人肉食も、また作物を生産する農民が種籾を残して餓死することも、現象は対極にあるが、いずれも支配や収奪が強力で苛酷であったことを示している。まさに道義は幕藩体制にではなく、大塩たちにあり、歴史はそれを選択し、明治維新に至った。
31-1.資料
①
大塩平八郎の檄文
冒頭「四海困窮せば、天禄永く絶えん、小人に国家を治めしめば、災害並到る……」
②
中田敏「種籾は残った―『ひしぎ申す』―」(一九八〇年九月二十日)
『東北』第16号(中田敏追悼特集)、1984年12月、ガリ版刷りでホチキスで綴じた文献に所収されている。私は秋田大学在職時に入手した。彼の著作集がぶなの木出版から1992年に刊行されているというが未見である。意義が大きいため『社会教育学研究』第18号、2010年4月に以下を掲載した。
……(略)
二、我が家に語り継がれた話
……(略)大飢饉の時代(それが天明か天保かは聞いた様にも思うが今は記憶がない)には、大川筋数ヶ村の束ねをしていた人に良左エ門という人がいたという。
その人が私の祖父の祖父になるのか曾祖父になるのかそこの所も今は定かではないが、その年、田植えの頃に降り出した雨は七月になり、八月を迎えても一向に降りやまず、稲は一尺も伸びぬまま、秋を待つこともなく立ちぐされにくさり始めたという。*1
良左エ門は、此の年もまた村人の半数以上が生き抜けないだろうことを覚悟しながらも、それでも一人でも多くが生き抜くことを祈りながら、残された村中の食べ物を集めてそれを各戸の人数割りに再配分してその年の冬を迎えたという。
此の地は今でも県内一というより、日本有数の豪雪地帯である。私が生まれて昭和の時代を迎えてさへなお、隣を訪ねた人が急の吹雪にまきこまれて村内で死ぬ様なことがそれ程珍しくもなかった所である(私の父も七才の時に、萬(ヨロズ)屋への使いの帰り此の吹雪にまきこまれて家から五分と離れていない所に倒れていたのを運よく見つけられた経験があるという)。
だから雪が降り出すと人々は一歩も外に出ることもなく、ただじっと家の中で息をひそめる様に暮しながらカタ雪*2の季節まで待つのである。
ましてその年は食料が乏しい。乏しいというよりも繰り返す凶作に穀類らしい物はまったくなかったといってもいい。
私の母はよく「凶作三年、大凶作五年」ということを言っていた。つまり「一度凶作になると、その痛手が回復するには三年かかり、大凶作ならば五年はかかる」ということで、その痛手が回復しないうちにまた凶作になれば、生き残れるかどうかはもう神仏の加護を頼むしかない、そんな年の冬越しである。
深い雪の中で人々がどう過ごしていたかは、それぞれに誰もが知らない。それでも三月のカタ雪を迎えると、冬眠のクマが穴から出てくる様に、よろばいながらも何人かの村人が雪の上に出て来た。それぞれに我が家では何人が死んだかを淡々と語りあうと同時に、誰一人顔を見せることもなくなった家を数え上げた。
そんな中に良左エ門の家もあったことに驚いた村人達は、打ちそろって良左エ門家を訪ねた。やがて彼等は、奥の間にきちんとふとんを並べて北枕に横たわる良左エ門家の家族達を見つけた。人々は走り寄った。案じた通り家族の全員が餓死をしていた。それでもただ一人良左エ門に息があり、走り寄った村人達の一人一人の顔を見まわすと嬉しそうににこっと笑い、やがてすさまじい形相になったかと思うと、
「ひしぎ申す。」
とただ一言を叫び、叫ぶと同時に五八才のその命を終えた。
「ひしぎ申す」とは何のことだろう。人々はその意味のわからぬままに、それよりも村オサ(長)を失った事の大きさに打ちひしがれた。やっと冬を生きぬいたとはいえ、たべ物のつきた今を変える手だてが考えられない以上、生き残った人々の何人かはまた春を待たずに死んでゆくだろう。春までは生きたとしても、新しい年の種籾すらないとすれば此の村は死滅するしかあるまい。しかも知れる限り、聞ける限りの土地はすべて此の村と同じ様に苦しんでいる以上、種籾をわけてくれるあてもどこにもない。
今はまず村オサ(長)がいなければ何とも手だてがないと考えた生き残りの村人達は寄々相談して、御蔵入の代官所を通して隣藩の御城下で暮しを立てていた良左エ門の次男を呼び寄せることにした。
こうして春と共に良助は戻って来た。戻って来た彼は取りあえず一家の埋葬をすませると同時に、改めて家中を調べ直して見た。一家中の死を覚悟していたらしい父親が自分に何かを言い残しておかなかっただろうかと考えたからである。
と、驚いたことに、蔵の天井の上にまったく手つかずの四俵もの籾が、
「いざの時の種籾となすほかは、何人といえども手をふれるべからず」
との木札と共に残されていたのである。
早速此の種籾は数ヶ村の生き残った家々に配られて、そのために村はよみがえることができた。
同じ様にその後用意された種籾は、私の祖母(母の母)と叔父(母の弟)とが餓死した明治三九年の大飢饉(此の話はかつて自然保護誌に書いた)にも手つかずに我が家に残されたという。
そして此の「ひしぎ申す」という言葉は、それが言われた本当の意味はわからぬままに、それでも百姓の生き様はどうあるべきかを象徴するものとして長い間村の中に語りつがれ、種籾を残す行為と共に、百姓のたばねを義務づけられてきた我々一族の生き様を指し示すものとして私にまで語りつがれて来たのである。*3
そしてまた、此の「ひしぎ申す」という言葉は、村人のすべての生死を考えないではいられない立場に立たされてきた一人の男が、正にその死を直前にして、我が身を鬼にしても此の飢饉を打ち負かしてやる、という執念をこめての村人への約束であったろうと、我々一族は信じ続けて来たのである。
三、余談
長い間私は、此の“餓死してまで種籾を残した”という家伝には我が身にひき比べて、「そんなことが出来る人間が存在するのだろうか」に(ママ)疑問をもっていた。
ところが最近、私の生まれ育った地域とは遠い北陸のある地域などでも、鎮守の裏山とか、村の裏山などの思いかけず見つかった洞穴などから、三俵、五俵とつまれた江戸時代の籾が一度ならず見つかるという事実を知った。それもやはり飢饉に備えた種籾であり、そしてやはり、これを用意した人(個人か、村の主だった人何人だったかは別として)は、自分が餓死することがあったとしても種籾には手をつけず、生き残った人達のために残そうとしたものが、それを知るすべての人が死んだか、村が全滅したかによって、そういう種籾が用意されていたということも知られぬまま二世紀近くを眠っていたのだろうという推測を聞いて、ようやく私の祖先の生き様も信じることが出来るようになった。*4
……(略)
これを母は「一殺多生の心」だと教えてくれた。
つまり「一殺多生」の「一殺」とは多くの人々を救うために、飢虎の前に身を投げ出した釈迦の様に*5、或いは我が身への食をたってみずから入定することによって、多くの餓死者が出るだろう飢饉の終息を祈った出羽の上人達の様に、常に誰でもない「自分自身を殺す(死ぬ)こと」であって、他人を“暗殺”するための詭弁ではないと。
そして此の母の教えは同時に「自分を殺すことで多くの人々を生かすことが出来る程の人間になれ」ということでもあったし、「そうした死に場所から逃げぬ人間になれ」ということでもあったが、私自身は不敏にして遂にそうした人間からははるかに遠く、従って逃げるも逃げ出さざるも、そうした死に場所からもはるかに遠い境遇に安住したままいたずらに恥多き日々を重ねて来たが、しかし頭の片すみからはとうとう母の声を消し去ることができぬまま今日まで過ごして来た。
最近都会からは、西欧流の生き方に影響された小説家等によって、飢餓の時あたかも「人肉食すらあった」かの様に言われ、テレビで放映されさへもした様だが、「我が身が餓死するとも種籾を残した人々」はもちろん、終生「二本足、四本足は食う物ではない」とトリ肉さへも口にしなかった母など多くの日本の百姓にとっては、若し親子兄弟を食わなければならない程の飢餓に直面したとしたら、その前にみずからを殺すことで「無間の地獄」に落ちることから逃れたであろうと確信する。
そして今、我々の自然保護運動が同時に常に「人間の心の復活を求める運動でもある」とあえて言うならば、その求める人間の心は常に「我が身が餓死しても種籾を残す日本人の心に復活」であって、「緊急避難に名をかりて他人を見すてる(犠牲にする)ことが許される精神」の導入ではないし、まして若者達をはやし立てて反体制の運動にかり立てながら、我が身は常に体制の作り上げた暮しの中にひたりつつ、いつともなくその論理をさへ百八十度も転回させる評論家の様であってはならないと考える。
……(略)
<注>
*1
2009年、気象庁は東北地方の梅雨明け宣言を行わなかった(東北北部は6年ぶり5回目)。さらに、16年前にはやはり梅雨明けがないばかりか、記録的な冷夏で米の収穫量が少なく「一九九三年米騒動」、「平成の米騒動」が起きたことは参考になる。
ただし、バブル以後で、米不足対策のため、米国、中国、タイから米を輸入したが(特にタイから大量輸入)、タイ政府が保管していた古米、古古米(これは日本側の要請に沿ったもの)、品質管理の悪さ(カビ臭い、ネズミの死骸や錆び釘が混ざっていた等)、インディカ米とジャポニカ米の食感の違い、それを取りあげた報道の影響(報道被害、風評被害)、さらに、当初の予測よりも米不足にはならなかったため、タイ米が余り、しかも翌年から新米が流通し始めると販売の可能性がますます低くなり、結局、タイ米は家畜の餌に回され、それでも処理しきれず、最終的には産業廃棄物(食品廃材)として処理されたり、不法投棄された。ところが、当時の世界の貿易量の約20%に当る米を日本が調達したため、国際的な価格高騰を招き、タイ国内でも米価が急騰し、タイ国民が悪影響を受け、さらに、世界全体では飢餓に苦しむ人は多く、日本の対策や結果について批判が出された。
*2
気温の上昇につれて、積もっていた雪の表面が溶け、その水分が夜半から明け方にかけて冷やされ、積雪の上に氷の層を形成する。つまり、まだ氷が溶けない朝の時間帯は、雪が固くなり、従って動きやすくなる。つまり、「カタ雪」になれば、その時間帯は作業がしやすく、新たに生産活動を再開できる。
*3
「ひしぎ申す」について、「引き継ぎ申す」と解釈できると考える。東北地方の方言では「し」と「す」の発音が極めて似ていて、元々「ひしぎ」と言うつもりなら「ひすぎ」という発音になっただろう。臨終にあり「ひきつぎ」の「きつ」がかすれて「し」になり、「ひしぎ」と発音されたのではないだろうか。そして、これは種籾の引き継ぎを頼むという意味になり、その状況に合致している。
*4
群馬県で生まれ育った私も子供の頃に「種籾には死んでも手をだしちゃなんねぇ」という言葉を耳にした。家は農家ではなかったが、食事では米一粒も残さず食べろと躾られた。そのためか、今でも食事を残すことに強い罪悪感を覚える。
*5
釈迦は飢えた虎の親子のために身を投げ出したと伝承されている。
<共同学習2008>
Q:
昔の飢饉は、今の自分と関係ない。
山田:
直接は関係ないが、自分は父と母から生まれ、その父や母は祖父母から・・・
飢饉があった時代の人々がいなければ、今の自分はいない。
生命の連鎖。そしてライフサイクルと世代のサイクル(エリクソン)
これを忘れれば「根無し草」になり、アイデンティティの「土壌」、基盤が損なわれる。
<共同学習・補充2009>
“飢餓人口”10億人超える
NHK 2009年6月20日
国連は、世界的な経済危機を受けて、飢えに苦しむ人が、ことし初めて世界全体で10億人を超え、過去最悪になるとの見通しを示しました。これは、FAO=国連食糧農業機関が19日に発表したものです。……
"生涯教育計画論 第4回 講義ノート その2" へのコメントを書く