東大教育学の思想と実践-ルーツの探究-桐生に即して羽仁五郎との比較から-(草稿)

承前
 羽仁が「機織女工」を表題に使ったのは、製糸業が彼女たちの手工業(手の労働)に大いに依拠していたためである。それだけでなく、糸の前の繭においても女子労働者は重要であった。養蚕業は農家の副業であり、主たる米の生産とともに、桑の葉を摘み取り、蚕に餌として与え、繭にして出荷することは女性の労働なしには困難であった。
 「上州名物、かかあ天下に空っ風、義理人情」と「名物」の筆頭に「かかあ天下」が置かれる所以であった。ただし、それは近代的な男女平等・女性解放ではなく、あくまでも労働力としてであり、他では前近代的家父長的であった。
 確かに「全国にさきがけて女学校」が開校し、彼の父が「羽仁もと子の自由学園をたすけたのも、日本の婦人の解放のためであった」が、それは高貴なノブレス・オブリージュであり、庶民の日常生活では違っていた。具体的に言えば、私が過ごした一九七二年までだが、家庭では共稼ぎであっても家事育児は専ら女性(妻や母)であり、学校では学級委員長は男子、副委員長は女子で、児童会長・副会長、生徒会長・副会長も同様であった。
 このような社会構造の故に工場制手工業(マニュファクチュア)から工場制機械工業へと発展し、高度経済成長においていち早く、桐生では鋸屋根の織物工場群が生成したが、そこまでであった。町人自治は前近代的な性質を払拭しきれず、近代的な自由競争を勝ち抜いて力を増強した巨大資本の大量生産には敵わず、さらに高級絹織物でも「西陣」のブランド力=文化資本はなくて後れを取った。「技術では負けなかった」と幾度か聞いたが、その技術は前近代的な職人の技術であった(しかも西陣には大きな神社仏閣や観光客の消費があった)。

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