中川成夫における「人間の条件」の心理歴史的研究 草稿 その1
中川成夫における「人間の条件」の心理歴史的研究(草稿)
-特別高等警察主任警部から東京都北区教育委員長へのライフヒストリーにおいて-
中川成夫は戦前の治安維持法、特高警察、思想弾圧では重大な役割を果たした。特に小林多喜二の虐殺では現場で指揮した。
他方、中川は宮本顕治に対しては極めて手ぬるく、「聴取書作成不能」と報告し、宮本の「非転向」の「神話化」に加担した。この点は既に小論「記憶の風化と歴史認識に関する心理歴史的研究―抵抗と転向の転倒―」の3(3)「『非転向』の神話化の問題―宮本顕治に関連させて―」(『社会教育学研究』第12号、2007年4月)で論じた。これを踏まえて、さらに考察を加える。
1946年2月13日付「赤旗」では、「戦争犯罪人はまだ澤山ゐる」、「追放令をサボる政府」、「戦犯人を追放しよう!」の見出しの記事があり、それに続いて「区長署長が特高上がりだ」、「板橋問題にも一と役」の見出しで、中川滝野川区長、片岡滝野川署長の経歴が取り上げられている。中川については「特高主任警部として同志小林多喜二虐殺の下手人」と記され、また片岡については「昭和十年ごろより警視庁特高課の主任警部として根も葉もないことから事件をデッチ上げ、治安維持法により自由主義者まで」弾圧したと述べられている。「中川」の名は共産党ではこのようによく知られていた。ところが、治安維持法による犠牲者、被害者の問題に取り組む治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の刊行する『治安維持法と現代』2007年秋季号に掲載された近江谷昭二郎の「世界に誇るべき偉大な革命家・宮本顕治」では毛利、山県、鈴木の名前が挙げられているが、「中川」はない(同誌p.82)。山崎元「宮本顕治の不屈の公判闘争に学ぶ」でも同様である(同前p.89)。官憲に優遇されていた宮本の称賛と中川の弾圧の隠蔽という組み合わせは単なる偶然とは見なせない。
確かに特高警察時代の中川は残虐冷酷である。ところが戦後、彼は幼稚園を経営し(代表は妻)、東京都北区教育委員、教育委員長を務めるなど教育者となる。これは欺瞞と偽善の極みだろうか?
私はやはり特高警察であった伊藤猛虎の戦後を考えると、多角的深い考察が必要と考える。戦後、伊藤は訊問で拷問した宮原誠一に謝罪し、再出発した(より詳しくは学位論文に加筆した『平和教育の思想と実践』(同時代社、2007年、序章の注27)。
伊藤はゾルゲ事件にも関与していると言われる。そして、処刑のときのゾルゲについて、看守が政治犯の西里竜夫に「『まるで神様のようだった!』と……声をふるわせて感嘆し」て伝えた*1。これは伊藤の変化の補強になる。
共産主義者と特高警察は、謂わば最前線(宮原の用語では「最も実践的な末端」)で激闘していた。二つの世界大戦だけでなく、世界的規模の戦いは常態となっていた。ソ連はコミンテルンを通して各国に共産党を組織化し、勢力を伸張・浸透させていた。これはマルクス・レーニン主義を大義とする立場なら世界平和や人類解放のためと説明できるが、そうでない者には侵略・支配である。特高警察は日本の共産主義者をソ連の手先で売国奴(国賊)と見なし、国内だが強敵の謀略と戦っているという意識であった。そこに戦士としての真剣な闘争精神を見ることもできる。マルクス・レーニン主義は100%正しい絶対的な真理ではなく、治安維持法や特高警察は100%悪かったわけでもない。有限な人間の為すことは絶対的ではなく、どこまで正で、どこから悪か等々、多角的に捉えるべきである。無論、相対主義に陥らぬよう評価は明確にする。
マルクス・レーニン主義は暴力革命を目指し武装闘争を進めていた。ロシア革命や中国革命は赤軍や八路軍などの武力により達成されたことは史実である。
その闘争路線は、社会的な危機を深刻化させ、暴動を起こし、内乱、内戦、革命へと展開することであった。
日本共産党はコミンテルンの支部であり、その中に小林もいた。たとえ小林自身が武器をとってはいなくとも、武装闘争組織の一員であった。
日本共産党は権力を握らなくとも、自分の掌握する範囲内で「査問」を行使し、自由を奪い監禁して暴力をふるう場合もあった(その代表例が宮本が直接関与したスパイ査問事件)。
私自身も「査問」を経験した(その経緯の一端は小著『アイデンティティと時代』同時代社、2010年)。私は身体的暴力を受けなかったが、サークルなど自由な交流どころか日常的なつきあいまで禁じられた。つきあいの中には党員でない者も多かったが、一気に私から離れた。共産党の影響力をしみじみと実感させられた(そして「離脱」)。
これは1970年代後半のことであり、日本共産党は議会主義による平和革命を唱えていた。「民主集中制」と説明されたが「民主」より「集中」が優先され、その「集中」は党の活動ではないプライベートな人間関係や日常生活にまで及んだことを体験した。噂を理由に私生活について「査問」された。無実だったが、たとえそうではなくとも、私生活まで「査問」されるのは不当であり、釈明を繰り返す中でバカバカしくなり「離脱」した。
さらに、2000年代、私は大阪教育大学で学生の指導と教務のあり方をめぐり教職員組合の前前委員長、前委員長、現委員長、現書記次長に呼び出され、囲まれて説得された。特定の党派は前面には出ないが、これだけのメンバーが動員されたことは、それができる組織を思わざるを得ない。しかも、この時、私は組合の副委員長であったが、いかなる党派にも属していなかった(これについては別の機会に報告する)。
『党生活者』は小林の没後に発表された未完の作品だが、そのストーリーは小林のライフ・ストーリーと重なる部分があり、かつ共産党の教条的な党員像とは異なるところもある(特に二人の女性との関係)。ソ連のマクシム・ゴーリキーや中国の魯迅について考えると、もし小林が生きて、日本共産党が権力を掌握したら、同様の運命に見舞われた可能性がある。
ゴーリキーはボリシェビキに賛同し、積極的に支援した。しかし、十月革命の後、暴力革命に疑義を呈した。これはローザ・ルクセンブルクの「ロシア革命論」におけるレーニン批判に通じる。特に知識人(インテリゲンツィア)の「恐るべき」逮捕をめぐり、レーニンは1919年9月15日に「執筆」したゴーリキー宛の書簡で「ブルジョワ・インテルイゲンツィアのこの環境からぬけださないかぎり、おしまいですよ」と書いている*1。「おしまい」には付注があり「ものを書いていない」と記されているが「書いていない」のではなく、一党独裁の言論出版統制で書く機会を奪われていると言える。さらに「逮捕」の後の粛清を考えれば、この「おしまい」は脅迫に他ならない。その後、ゴーリキーはイタリアに移り住んだ(後に帰国)。
また、魯迅を「戦前に毛沢東が聖人化」し、「戦後の共産党政権が独裁体制の正当化」に「利用し続けた」が、毛は「一九五七年に上海で文化人グループに会見した際」、「もしも今日、魯迅がまだ生きていたら、どうなっていたでしょうか」と問われると、「私が思うに、牢屋に閉じこめられながらもなおも書こうとしているか、大勢を知って沈黙しているかだろう」と答えたと伝えられている*1。このエピソードは知られており「新中国成立後の50年代、『いま魯迅が生きていたら』と尋ねられた毛沢東が、『あんなうるさい奴が生きていたら、いまごろは牢獄か死刑だ』と答えた」とも報道されている*2。筆者も同様の言説を聞いており、その信頼性は高いと言える。
小林は、たとえ全体主義の特高警察の弾圧を生き抜いたとしても、次は共産主義の粛清にさらされたであろう。
-特別高等警察主任警部から東京都北区教育委員長へのライフヒストリーにおいて-
中川成夫は戦前の治安維持法、特高警察、思想弾圧では重大な役割を果たした。特に小林多喜二の虐殺では現場で指揮した。
他方、中川は宮本顕治に対しては極めて手ぬるく、「聴取書作成不能」と報告し、宮本の「非転向」の「神話化」に加担した。この点は既に小論「記憶の風化と歴史認識に関する心理歴史的研究―抵抗と転向の転倒―」の3(3)「『非転向』の神話化の問題―宮本顕治に関連させて―」(『社会教育学研究』第12号、2007年4月)で論じた。これを踏まえて、さらに考察を加える。
1946年2月13日付「赤旗」では、「戦争犯罪人はまだ澤山ゐる」、「追放令をサボる政府」、「戦犯人を追放しよう!」の見出しの記事があり、それに続いて「区長署長が特高上がりだ」、「板橋問題にも一と役」の見出しで、中川滝野川区長、片岡滝野川署長の経歴が取り上げられている。中川については「特高主任警部として同志小林多喜二虐殺の下手人」と記され、また片岡については「昭和十年ごろより警視庁特高課の主任警部として根も葉もないことから事件をデッチ上げ、治安維持法により自由主義者まで」弾圧したと述べられている。「中川」の名は共産党ではこのようによく知られていた。ところが、治安維持法による犠牲者、被害者の問題に取り組む治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の刊行する『治安維持法と現代』2007年秋季号に掲載された近江谷昭二郎の「世界に誇るべき偉大な革命家・宮本顕治」では毛利、山県、鈴木の名前が挙げられているが、「中川」はない(同誌p.82)。山崎元「宮本顕治の不屈の公判闘争に学ぶ」でも同様である(同前p.89)。官憲に優遇されていた宮本の称賛と中川の弾圧の隠蔽という組み合わせは単なる偶然とは見なせない。
確かに特高警察時代の中川は残虐冷酷である。ところが戦後、彼は幼稚園を経営し(代表は妻)、東京都北区教育委員、教育委員長を務めるなど教育者となる。これは欺瞞と偽善の極みだろうか?
私はやはり特高警察であった伊藤猛虎の戦後を考えると、多角的深い考察が必要と考える。戦後、伊藤は訊問で拷問した宮原誠一に謝罪し、再出発した(より詳しくは学位論文に加筆した『平和教育の思想と実践』(同時代社、2007年、序章の注27)。
伊藤はゾルゲ事件にも関与していると言われる。そして、処刑のときのゾルゲについて、看守が政治犯の西里竜夫に「『まるで神様のようだった!』と……声をふるわせて感嘆し」て伝えた*1。これは伊藤の変化の補強になる。
共産主義者と特高警察は、謂わば最前線(宮原の用語では「最も実践的な末端」)で激闘していた。二つの世界大戦だけでなく、世界的規模の戦いは常態となっていた。ソ連はコミンテルンを通して各国に共産党を組織化し、勢力を伸張・浸透させていた。これはマルクス・レーニン主義を大義とする立場なら世界平和や人類解放のためと説明できるが、そうでない者には侵略・支配である。特高警察は日本の共産主義者をソ連の手先で売国奴(国賊)と見なし、国内だが強敵の謀略と戦っているという意識であった。そこに戦士としての真剣な闘争精神を見ることもできる。マルクス・レーニン主義は100%正しい絶対的な真理ではなく、治安維持法や特高警察は100%悪かったわけでもない。有限な人間の為すことは絶対的ではなく、どこまで正で、どこから悪か等々、多角的に捉えるべきである。無論、相対主義に陥らぬよう評価は明確にする。
マルクス・レーニン主義は暴力革命を目指し武装闘争を進めていた。ロシア革命や中国革命は赤軍や八路軍などの武力により達成されたことは史実である。
その闘争路線は、社会的な危機を深刻化させ、暴動を起こし、内乱、内戦、革命へと展開することであった。
日本共産党はコミンテルンの支部であり、その中に小林もいた。たとえ小林自身が武器をとってはいなくとも、武装闘争組織の一員であった。
日本共産党は権力を握らなくとも、自分の掌握する範囲内で「査問」を行使し、自由を奪い監禁して暴力をふるう場合もあった(その代表例が宮本が直接関与したスパイ査問事件)。
私自身も「査問」を経験した(その経緯の一端は小著『アイデンティティと時代』同時代社、2010年)。私は身体的暴力を受けなかったが、サークルなど自由な交流どころか日常的なつきあいまで禁じられた。つきあいの中には党員でない者も多かったが、一気に私から離れた。共産党の影響力をしみじみと実感させられた(そして「離脱」)。
これは1970年代後半のことであり、日本共産党は議会主義による平和革命を唱えていた。「民主集中制」と説明されたが「民主」より「集中」が優先され、その「集中」は党の活動ではないプライベートな人間関係や日常生活にまで及んだことを体験した。噂を理由に私生活について「査問」された。無実だったが、たとえそうではなくとも、私生活まで「査問」されるのは不当であり、釈明を繰り返す中でバカバカしくなり「離脱」した。
さらに、2000年代、私は大阪教育大学で学生の指導と教務のあり方をめぐり教職員組合の前前委員長、前委員長、現委員長、現書記次長に呼び出され、囲まれて説得された。特定の党派は前面には出ないが、これだけのメンバーが動員されたことは、それができる組織を思わざるを得ない。しかも、この時、私は組合の副委員長であったが、いかなる党派にも属していなかった(これについては別の機会に報告する)。
『党生活者』は小林の没後に発表された未完の作品だが、そのストーリーは小林のライフ・ストーリーと重なる部分があり、かつ共産党の教条的な党員像とは異なるところもある(特に二人の女性との関係)。ソ連のマクシム・ゴーリキーや中国の魯迅について考えると、もし小林が生きて、日本共産党が権力を掌握したら、同様の運命に見舞われた可能性がある。
ゴーリキーはボリシェビキに賛同し、積極的に支援した。しかし、十月革命の後、暴力革命に疑義を呈した。これはローザ・ルクセンブルクの「ロシア革命論」におけるレーニン批判に通じる。特に知識人(インテリゲンツィア)の「恐るべき」逮捕をめぐり、レーニンは1919年9月15日に「執筆」したゴーリキー宛の書簡で「ブルジョワ・インテルイゲンツィアのこの環境からぬけださないかぎり、おしまいですよ」と書いている*1。「おしまい」には付注があり「ものを書いていない」と記されているが「書いていない」のではなく、一党独裁の言論出版統制で書く機会を奪われていると言える。さらに「逮捕」の後の粛清を考えれば、この「おしまい」は脅迫に他ならない。その後、ゴーリキーはイタリアに移り住んだ(後に帰国)。
また、魯迅を「戦前に毛沢東が聖人化」し、「戦後の共産党政権が独裁体制の正当化」に「利用し続けた」が、毛は「一九五七年に上海で文化人グループに会見した際」、「もしも今日、魯迅がまだ生きていたら、どうなっていたでしょうか」と問われると、「私が思うに、牢屋に閉じこめられながらもなおも書こうとしているか、大勢を知って沈黙しているかだろう」と答えたと伝えられている*1。このエピソードは知られており「新中国成立後の50年代、『いま魯迅が生きていたら』と尋ねられた毛沢東が、『あんなうるさい奴が生きていたら、いまごろは牢獄か死刑だ』と答えた」とも報道されている*2。筆者も同様の言説を聞いており、その信頼性は高いと言える。
小林は、たとえ全体主義の特高警察の弾圧を生き抜いたとしても、次は共産主義の粛清にさらされたであろう。
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