生涯学習概論Ⅰ 第4講 20181024
ヘレニズムとヘブライズム、その合流
「知」と「信」の展開
①ヘレニズム
A.ギリシャ神話
金の時代の後に登場したゼウスによる人間の支配に対して
プロメテウスの反逆、人類への火の提供、そして「パンドラの箱」
プロメテウスが天上の火を盗み、人間に与えた。これにゼウスは怒り、人間に火の恩恵の代償を支払わせるため、鍛冶の神ヘファイストスに命じて粘土で女を造らせ,他の神々から女性としての魅力や美しい衣装などを授けさせ、「パンドラ」(あらゆる贈物を与えられた女の意)と名づけて地上に下し、プロメテウスの弟のエピメテウスに与えた。
そのとき彼女は神々からのみやげとして一個の壺(所謂パンドラの箱)を持参していたが、ゼウスは「決して開けてはならない」と命じた。
しかし、彼女は好奇心にかられ、そのふたを開けると、中からあらゆる悪や災いが飛び出して四方に散った。大急ぎで彼女はふたを閉じようとすると、ただ一つ「希望」だけが残った。
こうして、人間界には悪や災厄に満ちているが、それでも希望があるという。
だが、それもゼウスの陰険な罰なのかとも考えられる。
火は技術・科学=知識の応用と発展の象徴、また、好奇心は学習の契機、原動力である。
B.そして、ソクラテス
知を愛する=哲学=フィロソフィー
フィレオー=愛好、なお、性愛はエロス、神の愛はアガペー
そして、真に哲学する=死の練習
ソクラテス「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、よく生きるということなのだ。」(プラトン『クリトーン』48B)
「よく」について、客観主義、科学主義の主観、不可知論、相対主義に注意して、考える。
ソクラテスは「『悪いやつだが知恵はある』と言われる人々がいるものだ」と述べた*21。知を愛することが哲学(フィロソフィー)であるというだけでなく、その問題も認識すべきである。
ソクラテスは「死や危険」よりも「まず恥を知らなければならない」として、次のように述べた*22。
わたし自身でも、他の人でも、誰でもよくしらべて、知を愛し求めながら、生きて行かなければならないことになっているのに、その場において、死を恐れるとか、何か他のものを恐れるとかして、命ぜられた持場を放棄するとしたなら、それこそとんでもない間違いを犯したことになるだろう。そしてそのときこそ、神々の存在を認めない者であるとして、わたしを裁判所へ引っぱり出すのが、本当に正しいことになるだろう。神託の意に従わず、死を恐れ、知恵がないのに、知恵があると思っているのだからね。
なぜなら、死を恐れるということは、いいかね、諸君、知恵がないのに、あると思っていることにほかならないのだ。なぜなら、それは知らないことを、知っていると思うことだからだ。なぜなら、死を知っている者は、誰もいないからです。ひょっとすると、それはまた人間にとって、 一切の善いもののうちの、最大のものかもしれないのに、彼らはそれを恐れているのです。
その学習・教育論
「無知の知」、問答法と産婆術
②ヘブライズム
ユダヤ教からキリスト教へ
知は原罪
ヘブライ語の聖書「創世記」2-3章で、エデンの園の中央には生命の木と善悪の知識の木が生えていた。神はアダムに善悪の知識の木の実を「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と戒めた。しかし、蛇はエバに「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」と教唆した(新共同訳)。
この実は俗に「リンゴ」とされている。その派生で「ビッグ・アップル」、「アダムズ・アップル」などの言説もある。「アップル社」の意味も深長。
「目が開け」と「啓蒙」
「必ず死んでしまう」と原罪
「箴言」は知恵を説くが、
「学びすぎれば体が疲れる」(聖書「コヘレトの言葉」12章12節)
キリスト教の立場による「旧約」から「新約」への弁証法
ヘブライ語の聖書とギリシャ語の聖書
イエスは「山上の垂訓」として伝えられる教えの中で「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはならない。廃棄する ためにではなく、成就するためである。」(「マタイ福音書」五章一七節)
弁証法的な否定と止揚に相似。
イエスの十字架刑の死、復活
「一粒の麦」(「ヨハネ福音書」12章)
死んで生きるという弁証法
「生きよ」(ヘブライ語聖書「エゼキエル書」16章)、
聖書「エゼキエル書」16章4節~(これはエルサレムの喩えだが、生身の人間としても強烈なメッセージとなっている)
「誕生について言えば、お前の生まれた日に、お前の臍の緒を切ってくれる者も、水で洗い、油を塗ってくれる者も、塩でこすり、布でくるんでくれる者もいなかった。だれもお前に目をかけず、これらのことの一つでも行って、憐れみをかける者はいなかった。お前が生まれた日、お前は嫌われて野に捨てられた。しかし、私がお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、私は血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。私は、野の若草のようにお前を栄えさせた。それでお前は、健やかに育ち、成熟して美しくなり、胸の形も整い、髪も伸びた。……お前は非常に美しくなり、女王のようになった。……お前はその美しさを頼みとし、自分の名声の故に姦淫を行った。お前は通りかかる者すべてにこびを売り、身をまかせた。……お前は、あらゆる忌まわしいことや姦淫を行っているあいだ、幼いときに裸で血の中をもがいたことを思い起こさなかった。……お前は誓いを軽んじ、契約を破った。だが、私は、お前の若い日にお前と結んだ私の契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる。お前は主の道を思い起こし、姉たちと妹たちを受け入れるとき、恥を負うであろう。……こうして、お前が行ったすべてのことについて、私がお前を赦すとき、お前は自分のしたことを思い起こして恥じ、自分の不名誉のゆえに、二度と口を開くことはできなくなる。……」
「自分の血の中でもがいている」者に対して「生きよ」という命令の厳しさ。
安易に幼少期のトラウマと説明し、運命論的に諦めさせる皮相的で無責任な「心理学」など吹き飛ばす強さ、底力がある。
さらに、その後の堕落に対しては「お前は自分のしたことを思い起こして恥じ、自分の不名誉のゆえに、二度と口を開くことはできなくなる」との宣告
「エゼキエル書」20章42-43節
「お前たちは私が主であることを知るようになる。その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分の汚した全ての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪の故に自分を嫌悪するようになる。」
罪も恥も述べられている。
「恥の文化」、「罪の文化」と単純に分けられない。
愛を以て生きる(ギリシャ語聖書)
神の「愛」=アガペー
「コリントの信徒への手紙・一」一章二二~二五節「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。(中略)神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」
「コリントの信徒への手紙・二」一一章三〇節「誇る必要があるなら、私は弱さにかかわる事柄を誇りましょう」、一二章九節「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
そして、
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」(「ヨハネ福音書」八章三二節)
③キリストの後
ギリシャ語聖書「コリント人への手紙」第一、1章18節~25節
パウロの概括
「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。……神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い……」
グノーシス主義:1世紀に起こり、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想の一つであり、物質と霊の二元論に特徴がある。グノーシスとは、古代ギリシア語で、認識・知識を意味し(英語のknowの語源)、それにより真の神に到達できるとした。その代表例がマニ教と言われる。
新プラトン主義(ネオプラトニズム)・・・3世紀頃に起こった。
その創始はプロティノス(Plotinos 205年? - 270年)とされている。彼はプラトンの哲学から唯一の存在を説いた。
新プラトン主義は神秘主義的性格を強め、キリスト教との相関関係において、ヘレニズムの多神教とヘブライズムの一神教を融合し、古代ローマの社会における有力な観念を形成した。その中でキリスト教はローマ帝国の国教となった。
ヘレニズムとヘブライズムの合流
④時空間の観念
ヘレニズム
ギリシャ神話
金の時代、銀の時代、銅の時代、鉄の時代(戦争の時代)・・ヘシオドス『仕事と日』等
ヘブライズム
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
キリスト教では旧くから用いられてきた言説・問いかけ。
また、フランス人のポール・ゴーギャン(1848年~1903年)が、1891年にタヒチ島に渡り、1897年から1898年に創作した絵画のタイトル(D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?)である。
この問いかけに対して、キリスト教信仰では、信仰的には、神がエデンの園で創造し、そこから追放されたが、信じることで救われ、パラダイスに行くである。
だが、この問いを、ゴーギャンはカトリックの総本山であるバチカンでもなく、イエス・キリストが生まれたベツレヘムや天に昇ったエルサレムでもなく、遠い異文化のタヒチにおいて表現した。
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」との問いを、キリスト教世界を超えて、より広い普遍的な世界に位置づけた作品と言える。
⑤己れへの問い、意識化
「主体」
語源的に「下に(sub)」と「投げる(ject)」が組み合わされたsujectが「主体」となるのは「臣下」としてである。
キリスト教における信仰義認説
先祖代々信じているから信じるのではなく、個人が理解し、自覚し、決断して信じる。
アイデンティティはかつて「主体性」とも訳されたが、その異同について、よく考える。
⑥ 自由とリベラル・アーツ
前回からの発展としても
ルネサンス(再生)は13世紀末から15世紀末に、イタリアで始まりヨーロッパに拡大した。
教会や修道院における教義や神学の伝授の他に、物事や人間を追究したいと願う「学生」が集まり、「大学」が発生した。
古代ギリシアの哲学、数学、物理学、文学、芸術等々の再発見(イスラームを通して)。そして、人文主義の強調、文芸復興、学芸復興。
ヘブライズムとヘレニズムの統合と発展と言える。
そして、
教養(リベラル・アーツ、自由な学芸)の形成
古代ギリシャ、ローマにおいて奴隷ではなく自由な市民となるための学芸=教養として、神話や古典に記述されているが不定型であったことがらを、ルネサンス期の人文主義者が意識し、再評価し、定型化してまとめるようになった。
ローマ時代の末期に「セブン・リベラル・アーツ」(自由7科)が成立したと伝えられる。
それは、「3学」 (トリウィウム) と「4科」 (クワードリウィウム) の2領域から成っている。
「3学」は、主に言語に関わり、「文法」(Grammar)、「修辞学」(Rhetoric)、「弁証法(論理学)」(Logic)。
「4科」は数学を起点とした4科目で、「算術」(Arithmetic)、「幾何」(Geometry)、「天文」(Astronomy)、「音楽」(Music)である。音楽も数学的に捉えたと言える。
この「自由7科」の上に「哲学」(Philosophy)があり、さらにその上に「神学」(Theology)があるという学問体系になっていた。
その後、中世のヨーロッパで大学が誕生し、この「自由7科」は、学問の科目として用いられ、その伝統を今も継承している。
特に米国の「リベラル・アーツ・カレッジ」は
なお、
ヒューマニズムには人間主義の側面もあり、神が主に対して、人間を打ち出した。それは後に宗教改革へと繋がる。
文芸作品の素養に関わるリベラル・アーツ(教養)は、古代の原初的で大らかな人間の本音(神々も極めて人間くさい)を人間讃歌へと発展させた。
自由は自ら得るから自由であり、他から与えられるものは、本質的に自由には値しない。
自由と気ままは違う。これはリベラル・アーツと「半教養」(アドルノ)、「第二芸術」(桑原武夫)の違いに対応している。
生涯教育がユネスコでポール・ラングランにより1965年に提唱されてから、
ロバート・ハッチンスの「学習社会(The Learning Society)」論(Praeger、1968)
古代アテネをモデルにしてリベラル・アーツ(自由な学芸)の意義を論じた。
これに対して東洋、そして日本において対置できる「教養」があるか?
これはパワーポリティクスにおけるソフトパワーに関わる。
歴史と伝統文化、そしてアイデンティティ
記紀、万葉集、平安文学、密教、禅、……朱子学、陽明学、水戸学、国学、文武両道、明治維新、文明開化、
その中の新渡戸の『武士道』
「知」と「信」の展開
①ヘレニズム
A.ギリシャ神話
金の時代の後に登場したゼウスによる人間の支配に対して
プロメテウスの反逆、人類への火の提供、そして「パンドラの箱」
プロメテウスが天上の火を盗み、人間に与えた。これにゼウスは怒り、人間に火の恩恵の代償を支払わせるため、鍛冶の神ヘファイストスに命じて粘土で女を造らせ,他の神々から女性としての魅力や美しい衣装などを授けさせ、「パンドラ」(あらゆる贈物を与えられた女の意)と名づけて地上に下し、プロメテウスの弟のエピメテウスに与えた。
そのとき彼女は神々からのみやげとして一個の壺(所謂パンドラの箱)を持参していたが、ゼウスは「決して開けてはならない」と命じた。
しかし、彼女は好奇心にかられ、そのふたを開けると、中からあらゆる悪や災いが飛び出して四方に散った。大急ぎで彼女はふたを閉じようとすると、ただ一つ「希望」だけが残った。
こうして、人間界には悪や災厄に満ちているが、それでも希望があるという。
だが、それもゼウスの陰険な罰なのかとも考えられる。
火は技術・科学=知識の応用と発展の象徴、また、好奇心は学習の契機、原動力である。
B.そして、ソクラテス
知を愛する=哲学=フィロソフィー
フィレオー=愛好、なお、性愛はエロス、神の愛はアガペー
そして、真に哲学する=死の練習
ソクラテス「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、よく生きるということなのだ。」(プラトン『クリトーン』48B)
「よく」について、客観主義、科学主義の主観、不可知論、相対主義に注意して、考える。
ソクラテスは「『悪いやつだが知恵はある』と言われる人々がいるものだ」と述べた*21。知を愛することが哲学(フィロソフィー)であるというだけでなく、その問題も認識すべきである。
ソクラテスは「死や危険」よりも「まず恥を知らなければならない」として、次のように述べた*22。
わたし自身でも、他の人でも、誰でもよくしらべて、知を愛し求めながら、生きて行かなければならないことになっているのに、その場において、死を恐れるとか、何か他のものを恐れるとかして、命ぜられた持場を放棄するとしたなら、それこそとんでもない間違いを犯したことになるだろう。そしてそのときこそ、神々の存在を認めない者であるとして、わたしを裁判所へ引っぱり出すのが、本当に正しいことになるだろう。神託の意に従わず、死を恐れ、知恵がないのに、知恵があると思っているのだからね。
なぜなら、死を恐れるということは、いいかね、諸君、知恵がないのに、あると思っていることにほかならないのだ。なぜなら、それは知らないことを、知っていると思うことだからだ。なぜなら、死を知っている者は、誰もいないからです。ひょっとすると、それはまた人間にとって、 一切の善いもののうちの、最大のものかもしれないのに、彼らはそれを恐れているのです。
その学習・教育論
「無知の知」、問答法と産婆術
②ヘブライズム
ユダヤ教からキリスト教へ
知は原罪
ヘブライ語の聖書「創世記」2-3章で、エデンの園の中央には生命の木と善悪の知識の木が生えていた。神はアダムに善悪の知識の木の実を「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と戒めた。しかし、蛇はエバに「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」と教唆した(新共同訳)。
この実は俗に「リンゴ」とされている。その派生で「ビッグ・アップル」、「アダムズ・アップル」などの言説もある。「アップル社」の意味も深長。
「目が開け」と「啓蒙」
「必ず死んでしまう」と原罪
「箴言」は知恵を説くが、
「学びすぎれば体が疲れる」(聖書「コヘレトの言葉」12章12節)
キリスト教の立場による「旧約」から「新約」への弁証法
ヘブライ語の聖書とギリシャ語の聖書
イエスは「山上の垂訓」として伝えられる教えの中で「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはならない。廃棄する ためにではなく、成就するためである。」(「マタイ福音書」五章一七節)
弁証法的な否定と止揚に相似。
イエスの十字架刑の死、復活
「一粒の麦」(「ヨハネ福音書」12章)
死んで生きるという弁証法
「生きよ」(ヘブライ語聖書「エゼキエル書」16章)、
聖書「エゼキエル書」16章4節~(これはエルサレムの喩えだが、生身の人間としても強烈なメッセージとなっている)
「誕生について言えば、お前の生まれた日に、お前の臍の緒を切ってくれる者も、水で洗い、油を塗ってくれる者も、塩でこすり、布でくるんでくれる者もいなかった。だれもお前に目をかけず、これらのことの一つでも行って、憐れみをかける者はいなかった。お前が生まれた日、お前は嫌われて野に捨てられた。しかし、私がお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、私は血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。私は、野の若草のようにお前を栄えさせた。それでお前は、健やかに育ち、成熟して美しくなり、胸の形も整い、髪も伸びた。……お前は非常に美しくなり、女王のようになった。……お前はその美しさを頼みとし、自分の名声の故に姦淫を行った。お前は通りかかる者すべてにこびを売り、身をまかせた。……お前は、あらゆる忌まわしいことや姦淫を行っているあいだ、幼いときに裸で血の中をもがいたことを思い起こさなかった。……お前は誓いを軽んじ、契約を破った。だが、私は、お前の若い日にお前と結んだ私の契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる。お前は主の道を思い起こし、姉たちと妹たちを受け入れるとき、恥を負うであろう。……こうして、お前が行ったすべてのことについて、私がお前を赦すとき、お前は自分のしたことを思い起こして恥じ、自分の不名誉のゆえに、二度と口を開くことはできなくなる。……」
「自分の血の中でもがいている」者に対して「生きよ」という命令の厳しさ。
安易に幼少期のトラウマと説明し、運命論的に諦めさせる皮相的で無責任な「心理学」など吹き飛ばす強さ、底力がある。
さらに、その後の堕落に対しては「お前は自分のしたことを思い起こして恥じ、自分の不名誉のゆえに、二度と口を開くことはできなくなる」との宣告
「エゼキエル書」20章42-43節
「お前たちは私が主であることを知るようになる。その所で、お前たちは自分の歩んだ道、自分の汚した全ての行いを思い起こし、自分の行ったあらゆる悪の故に自分を嫌悪するようになる。」
罪も恥も述べられている。
「恥の文化」、「罪の文化」と単純に分けられない。
愛を以て生きる(ギリシャ語聖書)
神の「愛」=アガペー
「コリントの信徒への手紙・一」一章二二~二五節「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。(中略)神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」
「コリントの信徒への手紙・二」一一章三〇節「誇る必要があるなら、私は弱さにかかわる事柄を誇りましょう」、一二章九節「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
そして、
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」(「ヨハネ福音書」八章三二節)
③キリストの後
ギリシャ語聖書「コリント人への手紙」第一、1章18節~25節
パウロの概括
「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。……神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い……」
グノーシス主義:1世紀に起こり、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想の一つであり、物質と霊の二元論に特徴がある。グノーシスとは、古代ギリシア語で、認識・知識を意味し(英語のknowの語源)、それにより真の神に到達できるとした。その代表例がマニ教と言われる。
新プラトン主義(ネオプラトニズム)・・・3世紀頃に起こった。
その創始はプロティノス(Plotinos 205年? - 270年)とされている。彼はプラトンの哲学から唯一の存在を説いた。
新プラトン主義は神秘主義的性格を強め、キリスト教との相関関係において、ヘレニズムの多神教とヘブライズムの一神教を融合し、古代ローマの社会における有力な観念を形成した。その中でキリスト教はローマ帝国の国教となった。
ヘレニズムとヘブライズムの合流
④時空間の観念
ヘレニズム
ギリシャ神話
金の時代、銀の時代、銅の時代、鉄の時代(戦争の時代)・・ヘシオドス『仕事と日』等
ヘブライズム
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
キリスト教では旧くから用いられてきた言説・問いかけ。
また、フランス人のポール・ゴーギャン(1848年~1903年)が、1891年にタヒチ島に渡り、1897年から1898年に創作した絵画のタイトル(D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?)である。
この問いかけに対して、キリスト教信仰では、信仰的には、神がエデンの園で創造し、そこから追放されたが、信じることで救われ、パラダイスに行くである。
だが、この問いを、ゴーギャンはカトリックの総本山であるバチカンでもなく、イエス・キリストが生まれたベツレヘムや天に昇ったエルサレムでもなく、遠い異文化のタヒチにおいて表現した。
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」との問いを、キリスト教世界を超えて、より広い普遍的な世界に位置づけた作品と言える。
⑤己れへの問い、意識化
「主体」
語源的に「下に(sub)」と「投げる(ject)」が組み合わされたsujectが「主体」となるのは「臣下」としてである。
キリスト教における信仰義認説
先祖代々信じているから信じるのではなく、個人が理解し、自覚し、決断して信じる。
アイデンティティはかつて「主体性」とも訳されたが、その異同について、よく考える。
⑥ 自由とリベラル・アーツ
前回からの発展としても
ルネサンス(再生)は13世紀末から15世紀末に、イタリアで始まりヨーロッパに拡大した。
教会や修道院における教義や神学の伝授の他に、物事や人間を追究したいと願う「学生」が集まり、「大学」が発生した。
古代ギリシアの哲学、数学、物理学、文学、芸術等々の再発見(イスラームを通して)。そして、人文主義の強調、文芸復興、学芸復興。
ヘブライズムとヘレニズムの統合と発展と言える。
そして、
教養(リベラル・アーツ、自由な学芸)の形成
古代ギリシャ、ローマにおいて奴隷ではなく自由な市民となるための学芸=教養として、神話や古典に記述されているが不定型であったことがらを、ルネサンス期の人文主義者が意識し、再評価し、定型化してまとめるようになった。
ローマ時代の末期に「セブン・リベラル・アーツ」(自由7科)が成立したと伝えられる。
それは、「3学」 (トリウィウム) と「4科」 (クワードリウィウム) の2領域から成っている。
「3学」は、主に言語に関わり、「文法」(Grammar)、「修辞学」(Rhetoric)、「弁証法(論理学)」(Logic)。
「4科」は数学を起点とした4科目で、「算術」(Arithmetic)、「幾何」(Geometry)、「天文」(Astronomy)、「音楽」(Music)である。音楽も数学的に捉えたと言える。
この「自由7科」の上に「哲学」(Philosophy)があり、さらにその上に「神学」(Theology)があるという学問体系になっていた。
その後、中世のヨーロッパで大学が誕生し、この「自由7科」は、学問の科目として用いられ、その伝統を今も継承している。
特に米国の「リベラル・アーツ・カレッジ」は
なお、
ヒューマニズムには人間主義の側面もあり、神が主に対して、人間を打ち出した。それは後に宗教改革へと繋がる。
文芸作品の素養に関わるリベラル・アーツ(教養)は、古代の原初的で大らかな人間の本音(神々も極めて人間くさい)を人間讃歌へと発展させた。
自由は自ら得るから自由であり、他から与えられるものは、本質的に自由には値しない。
自由と気ままは違う。これはリベラル・アーツと「半教養」(アドルノ)、「第二芸術」(桑原武夫)の違いに対応している。
生涯教育がユネスコでポール・ラングランにより1965年に提唱されてから、
ロバート・ハッチンスの「学習社会(The Learning Society)」論(Praeger、1968)
古代アテネをモデルにしてリベラル・アーツ(自由な学芸)の意義を論じた。
これに対して東洋、そして日本において対置できる「教養」があるか?
これはパワーポリティクスにおけるソフトパワーに関わる。
歴史と伝統文化、そしてアイデンティティ
記紀、万葉集、平安文学、密教、禅、……朱子学、陽明学、水戸学、国学、文武両道、明治維新、文明開化、
その中の新渡戸の『武士道』
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