体制の中枢では一九四三年末に戦争収拾が模索されていた。軍部の中枢は、私は不詳だが、末端では四五年三月に現れていた。東大文学部の助手で海軍技術研究所嘱託も務めていた日高は、次のように述べている*1。
「最初私は、『国民の戦意高揚の方策』といったたぐいの研究の助手のようなことをさせられた。しかし敗戦の年の三月ごろから、雲行きが変わって…
三木の獄死は国際関係のパワー・ポリティクスを踏まえて考えるべきである。それだけの力量を、三木は持っていた。
ポツダム宣言受諾の一年以上も前から、体制は戦争収拾、戦後処理を本格的に考えていた。
一九四三年一二月一日にカイロ宣言が発表された。。
木戸幸一の同月二二日の日記では、「樺山伯来訪」の後に「何等か戦争終結に対処する方…
劣等感と嫉妬で陥れられた例として、さらにルソーに注目する。
ルソーはパリから離れざるを得なくなった。ルソーの生(ライフ)には様々な事情が絡んでおり、一概に理由を単純化できないが、彼の性癖、愛人との関係、子供を孤児院に入れたこと、彼の民主主義や平和主義の啓蒙思想に対して体制が圧力を強めたことだけでなく、彼の名声に対する劣等感・嫉妬と…
4.
公安警察の上層部が「巧妙にしくんだ殺人」を犯したとしても(少なくとも未必の故意)、その決定の過程で、三木が如何に危険かと教唆する者がいなくてはならない。公安警察は哲学・思想の専門家ではないからである。
この点で、御用学者が問われる。仮説を提示すれば、計画した主犯は上層部、実行犯は獄吏や同房の刑事犯(日々衰弱する三木を見て見…
2.
先述の「巧妙にしくんだ殺人」について、暴政の中枢が計画、実行した可能性について考える。その理由は、三木の力量が極めて大きく、従って危険性も重大であったことが挙げられる。
彼が出獄し、その力量を発揮すれば日本の民主化は大いに進んだであろう。しかし同時にマルクス主義(具体的にはソ連)の影響も大きくなり、大衆がその方向に走る可能…
『平和教育の思想と実践』で三木清~宮原誠一について論じた。以下は、その発展である。
1.
日高六郎は三木清の獄死について「日本は、戦後、おそらくもっとも重要な思想的な仕事をしたであろうひとりの思想家を失った……。」と述べている*1。
日高は『教育論集』(一ツ橋書房、一九七〇年)を出し、家永教科書裁判を支援したように、広義…
7.日本で生成した「民主」の再認識-「和」と「原民主」-
「民主」に関しても、この訳語が使われる以前から、日本では民主的な精神が生成していた。
貴族院における憲法改正の審議において、南原繁は「日本ハ昔カラ、或ハ言葉ハ兎ニ角ト致シマシテ、民主主義ノ氣持、或ハ原則ニ付テハ國體トシテ既ニ容認シテ居ルノデアル、之ノ私ノ考ヘ方ハ、從來…
教育の「原形態」としての社会教育、近代の学校教育、より高次の教育の「原形態」としての社会教育という宮原教育発展史観を、日本における科学観から科学的精神への発展に即して研究し、さらに発展させる。
これにより発達=発展を指導する教育の発展史観の発展、即ち三重の発展を目指す。
1.展開-一即多-
まず、日本における科学観の…
Ⅴ コンプレクスの意識化
1.
中年になり、魯迅の「小さな出来事」*1の以下の部分を読み、MMさんのことを想い出した。
「この出来事は、いまでもよく思い出す。そのため私は苦痛を忍びがたく自分のことに考えを向けようと努力することにもなる(我因此也時時熬了苦痛、努力的要想到我自己)。この数年来の政治も軍事も、私にあっては、子ど…
Ⅳ ギャング・エイジ-侠骨の気風の地で-
1.
中学生になると、クラスやクラブ(部活)の他に親しい仲間との繋がりもできるようになる。「メダカは群れたがる」の如く、また「ギャング・エイジ(gang age)」のように集団をつくり、行動する。
この「ギャング」はマフィアやヤクザだけでなく仲間も意味するが、それは荒くれ男の仲間で…
Ⅲ 学童期から思春期においてできたコンプレクス
1.
私は子供の頃から物語や小説を乱読した。その中で、安珍・清姫の説話で、僧の安珍を恋いこがれるあまり蛇になった清姫が熱気(毒気)で鐘に隠れた安珍を焼け殺したという物語を読んだ。そして、大人が酒を酌み交わしながらおしゃべりしているそばで遊びながら(当時は子供部屋などない住環境)、…
Ⅱ 手さえ触れなかった心的要因
1.
「おふじ」は、おとなしくてまじめな美少女で、若い頃の吉永小百合が少し丸味を帯びたような生き生きとした美貌を備えていると私の目には見えた。彼女は、当時一二~一四歳という発達段階にいた中学生で、私(当時二〇代前半の大学生)が教えていた学習塾に通い、さらに少年団でも活躍していた。この二つは「だん…
小著『アイデンティティと時代』の発展のために、アイデンティティと歴史に自己分析的にアプローチする。
これまで「アイデンティティとアウシュヴィッツ-二度目の総括とルーツ(根)からの自己分析のために-」(『社会教育学研究』第三七号、二〇〇七年一月)、「アイデンティティと歴史-ルーツの心理歴史的探究のためのノート-」(『博物館と障害教育…
藤田ゼミ論集の四篇に注目して
ゼミ論集から、公害(環境汚染)に対する住民運動、労働者自己教育運動、消費者運動など問題意識を以て幅広く社会教育の実践にアプローチしていたことが分かる。
一九七〇~八〇年代、私も学生~院生であり、多くのテーマは私自身が学んでいたものである。その中で関連性の大きい論文について付言する。
まず、高…
Ⅷ 藤田ゼミ論集の意義
①
ゼミ論集全巻は立正大学大学史編纂室に寄贈されている。
私は、その一部を託された。主に一九七〇年代半ばのもので、私は驚愕した。特に一九七四、七五、七六年度のゼミ論集は、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ等々と数巻に及んでいたからである。
同時期、私は東京大学に在籍し、教養部から文学部社会学科に進んでいた。そし…
Ⅶ 統制強化の帰結-教育委員会の形骸化と衆愚政治・愚民政策-
教育委員の公選制か任命制かという前に、選挙自体に関してさえ、「出たい人より、出したい人を」という言説に示されるように問うべき点がある。選挙=選抜において「逆選抜」がなされると、衆愚政治となる。これを阻止・抑制し、民度を高めばならず、やはり学習・教育が求められる。
…
補論 「逆コース」と戦犯の免訴、復権-文教行政に即して-
①
寺中の戦中と戦後について先に問うたが、より重大な問題として多数の戦犯の免訴、復権がある。
教育委員会法の失効=公選制から任命制への改変において文部次官(五三~五六年在任)であった田中義男は内務省の中の特別高等警察の官僚であった(吉田茂~鳩山一郎内閣)。つまり、寺…
Ⅵ 「サポート・バット・ノー・コントロール」をめぐる動勢
「サポート・バット・ノー・コントロール」の理解を深めるために、まず当時の動勢について考察していく。
1.公民館委員と教育委員-公選制から任命制へ-
戦後の民主化において公民館は民主主義の施設として構想された。一九四六(昭和二一)年七月五日付文部次官通牒「公民…
Ⅴ 継承と発展
1.社会教育としての教育
宮原先生は、教育を学校教育ではなく社会教育を根幹に据えていた。それはマルカム・ノウルズ氏がデュシャン・サヴィチェヴィチ氏に啓発されてペダゴジーに対してアンドラゴジーを提示する数十年前であった。文献としては宮原先生の「教育の本質」や「社会教育の本質」(いずれも一九四九年発表、『宮原誠…
Ⅵ 藤田先生の生き方と自己教育としての社会教育
-『戦中戦後 少年の日記 一九四四~四五年』を踏まえて-
1.
碓井先生は宮原先生を論じる中で「人の自己教育は、この世に生きぬいていこうとする、かれの生きかたにかかわる。そのような自己教育を本旨とする社会教育について、深く論じようとすれば、論者は、まずみずからの生きかたを直視…